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梶本 聖高 変わることの大切さを知る「苦労人」 健康と笑顔を通して、ビジネスを広げたい


梶本 聖高 (かじもと きよたか)
K-STYLE(アザレ西福岡販売)

ライフチャート
●プロフィール
1971年福岡市生まれ。3人兄弟の長男として生まれ、腎臓病を患った父と、それを支える母を助けながら成長。中3で父を亡くす。福岡大学工学部を卒業後、システム会社に入社。28歳で結婚するが、その後母が癌で倒れたため、ヘットハンティングで東京へという話を諦め、家業を継ぐ。現在、化粧品・健康食品を通して健康寿命を延ばし、誰もが幸せな社会づくりに貢献する「ジェロントロジー学」を推奨している。「すまっぽん!」ビジネスアドバイザー。
●ヒストリー
 

母と弟妹を支えた少年時代
公立高校に補欠で滑り込む

――いつも穏やかで、優しそうな梶本さんですが、どんな少年時代を送ったんでしょう。

「生まれは福岡市ですが、静岡に住んでいた4歳の頃、父が腎臓病になりまして。仕事ができなくなったので、それを機に福岡に戻ってきました」

――腎臓ということは、透析が必要な状態に?

「そうです。母は管理栄養士だったので、母が家計を支えなければならなくなりまして、公民館とかで料理教室をしたり、味噌づくりをしたり、自然食品を使った仕事などをやるようになりました。父の病気と自分の経験と資格を活かした、新しい仕事ですね」


――そんな時に、ご両親はアザレ化粧品に会った。

「ちょうど、自然派の化粧品として注目を浴びた頃でしたね。父は週3日の6時間は体を動かせないので、短時間でできる仕事としても、ちょうどよかったのだと思います。健康をコンセプトにした、新しい事業です」

――でも、子どもたちも大変だったのではないですか。

「弟と妹がいて、僕が面倒を見ていましたけど、言うこと聞かなくて。それに家計も大変だったから、パンの耳を食べたりして、親がやりくりしていたことを覚えています。母は厳しかったですが、家が大変な中、僕に習い事をさせてくれました。ピアノ、絵、習字、プール、寺子屋に塾。忙しかったから、友だちとなかなか遊べませんでしたね」

――お母さまが、とても頑張られたんですね。

「僕は中学校の頃、いじめに合いました。それも、結構しんどいヤツで、自分としても追い詰められた時期があったんです。そんな時にタイミングよく、住まいを移った。母に話したわけではなかったんですが、もしかしたら何か気づいていたのかもしれませんが、そのおかげで転校でき、僕は救われましたね」

――母として気づくことがあったのかもしれませんね。

「そして、父が中3の時に亡くなりました。ちょうど受験勉強していて、塾にも通っている時期。当然、塾には行けなくなりましたが、家の隣で個人塾をしている人がいて、『うちにおいでよ』と言ってくれて。僕も『頑張ります!』と公立高校を目指したんですが、補欠合格で。『うわー、どうしよう』と思って家に待機していたら、合格の連絡がありました。よかったーとは思いましたが、一番下に入れてもらったわけですからね。ついていくのが大変でしたね」

受験当日に高熱でうなされ断念
マンモス大学で自分と生き方を変える

――進学については、どう考えられたんですか。

「とにかく勉強についていけなかったし、家のこともあるので、何も考えられていなくて。三者面談があった時に、先生と母から『どうすると?』と聞かれて、ついつい『料理人になります!』と答えた。いや、お金も大変だし、早く働いた方がいいかなとまじめに思ったんですよ。でも、今度は先生と母から怒られました。『何考えとるんね!』と(笑)。何か心外な感じでしたけどね。結局、進学を目指して一浪することになりましたが、進学先はやっぱり福岡だよね、離れるわけにはいかないなと考えて、目指すは九工大でした」

――頑張って勉強されたんですね。

「頑張りましたよ、本当に頑張って、九工大も大丈夫と自信を持って受験に臨もうとした当日、39度の熱が…。この時は、這ってでも試験受けようと思いました。いやいや、母が一浪させてくれたわけだし、無駄にはできんと思ったんですが、とうとう母から止められました。『もう、いいやん』って。あの時ばかりは、『本当に申し訳ございません』という気持ちでいっぱいでしたね」

――思うようにいかないものですね。福岡大学工学部に進学されて、変化があったんですね。

「はい、それまでの僕はおとなしくて、ただまじめに生きてきて、家の問題もあり、どちらかというと心を閉ざしていたところがあったんです。それに、井の中の蛙で、何も知らないし。そんな僕が、突然2万人ものマンモス大学に行ったでしょ。何もかもが刺激的で。今までできなかったことをしようと思ったんです。部活動に入ったり、人との交流の幅を広げたり。子ども頃の僕を知っている人は、『キャラ変わったな』と必ず言いますが、僕も変わることを求めていたんだなと思います」

――就職活動は、いかがでしたか?

「大学では、就職氷河期でしたので、まずは自己開拓ということで、僕もケミカル系に行きたいと面接を受けたら、とんとん拍子で最終面接。30分の面接の中、29分間はほぼ雑談で、最後に一つだけ聞かれたのが、『海外に行けますか?』。めっちゃ慌てて、『心の準備ができていませんが、考えます』とか返事したら、不採用でした。あの時、『行けます』って言ってたら、採用になったのかなー。
 そこからシステム開発会社を受け、入社。福岡が本社だからと安心していたら、東京に配属になった。出世するなら仕方ないとも思ったんですが、結局、福岡に戻って、ガス屋さんの営業を2年やってましたが、福岡地場のシステム会社に転職し、10年間頑張り、その間、結婚もしました」

 

母の死をきっかけに家業へ
健康の大切さを身をもって伝える

――福岡で仕事を始めたことで、落ち着かれたんですか。

「実はこの頃、母が癌で倒れまして、手術して少し落ち着いていた時期。僕は仕事も順調で、やりがいもあって楽しかったんですが、ヘットハンティングに合いました。東京勤務にはなるけど、やってみようと決断し、家族にも話して、いざ会社を辞めるという1か月前に母の癌が再発したんです。余命も長くない。僕は東京に行っていいのか。帰るのは週末だけになるし。そんな悩みの中で、6月に新しい会社に入りましたが、9月に母が亡くなったため、結局は12月に退職し、九州に戻りました」

――大変な決断でしたね。

「ものすごく迷いましたが、実家の家をあけっぱなしにするのは嫌でしたので、家業を継ぐことにしました。家は生き物ですからね。妻ともかなり険悪になり、大変な時期もありました。当然、離婚の危機も。でも、僕の父が亡くなったあと高校生くらいの時、家族会議したことがあった。議題は『新しいお父さんは必要か』。みんなで話しあって、『要らない』という結論に達したんですが、そんな思いを僕の子どもにはさせたくなかった。子どもたちがしっかり育ってくれているのが、最近は嬉しいですね」

――子どもさんも、とても頑張っていらっしゃるそうですね。

「長男は私立の中学に通っています。それにも、いろいろあったんですが、妻と妻のお義母さんと3人で話し合いました。今までのことや気持ちをお互い話したことで、3人とも前向きに考えられるようになりました。子どもも『私立に行かせてください』と気持ちを話してくれ、もちろん大変だけど、親として『行かせてやろう』と。本当に、妻とお義母さんに感謝しています。
 これからは、化粧品のユーザーさんに対して、イベントを企画したり、必要な情報をアウトプットするなど、仕掛けを考えていきたいと思っています。僕が今、注目しているのは『ジェロントロジー』(老齢学という学問)。誰でも、ピンピンコロリでありたいと思うでしょ。そのためには、身体をベストの状態にすることと、ギリギリまで自分で動くこと。いいものを正しく伝えられるように、常に寄り添える人でありたいと思っています」

 

――「すまっぽん!」のビジネスアドバイザーとしても、お忙しくなりますね。

「平井さんと賀村さんとの出会いは、本当に大きかった。いつも助けていただいていますが、すごい人が周りにいることで、いい経験をさせていただいています。人は一人では生きられない。『梶本さんがいるから』と言っていただけるような存在に、早くなりたいですね」

吉田さんの個展へ 吉田さんに出会えなかったら今の毎日投稿は無かったかも
外に飛び出すツルスベイベントは「すまっぽん!」が欠かせません

 
 

氏名 梶本 聖高(かじもと きよたか)
会社名・団体名 K-STYLE(アザレ西福岡販売)
所在地

〒819-0041 福岡市西区拾六町5-1-27

関連ホームページ http://www.azare-p-fuk.jp/
Facebookページ
すまっぽん!ページ
 
 
 
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 インタビューを終えて
「梶本 聖高」考

 

凌空行(上海)企業経営有限公司 飯盛 尚英

 とにかく、お人よしだ。しかも慎重派で、石橋を叩いても渡らないタイプだとか。幼少期から悩むことは多かっただろうし、頭を抱えて前に進めなくなったことも多々あっただろう。それでも歩いてこれたのは、強い母の存在があったから。習い事もさせてくれ、一浪もさせてくれ、いよいよという時に熱を出した長男を許し、応援してくれた母。母への感謝の思いがあったからこそ、福岡にとどまる決意ができたのではないだろうか。
周りにはいい友人も多いと聞く。息子の私立中学進学の際も、泣きながら背中を押してくれたり、「奥さんとちゃんと話して、感謝の気持ちを伝えなきゃダメだ」とアドバイスをくれたり。石橋をなかなか渡らない梶本さんのことを理解している人たち。その人たちがいるから、今がある。その人たちの思いに応えなきゃ。その気持ちが、今の梶本さんを前に進めているのではないだろうか。
「親として、子どもを迷わせないようにしなきゃ」と話す梶本さん。息子二人と酒を飲むことが夢だとか。親として子どもを思い、息子として母を思い、兄として弟妹を思い、夫として妻を思う。人を思うからこそ、人に思われる存在になる。それが梶本聖高。彼が輝きを放つ日は近い。

 
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