渡辺 俊洋 (わたなべ としひろ)
エッジコンサル
――ご出身は福岡のど真ん中。都会っ子ですね。
「いやいや、あの頃は渡辺通から南は田舎で田んぼばっかり。近くの青果市場で遊んだり、肥だめに落ちたり(笑)。ただ、高宮中学出身と言うと『おー!』と驚かれますね。なんせタモリが先輩で、森口博子に氷川きよし、博多華丸が後輩ですから」
――それはスゴイ。そんな小中学校時代、どんなお子さんだったんですか?
「『授業中、先生の話を聞かない』。通信簿には、いつもそう書かれてました。おしゃべり好きで、珍しいこと、新しいことが大好きで、人を笑わせるのが好きで。テレビではやった『三ばか大将』や『ザ・ルーシーショー』、吉本新喜劇のルーキー新一のモノマネやったり、クレージーキャッツをまねて歌ったり踊ったり。おちゃらけたガキですね」
――それはさぞ、人気者だったでしょう。
「まあ、好かれてはいたでしょうね。ブクブク太った肥満児で、あだ名はブースカ。今でも同窓会で『ブースカ、ブースカ』って呼ばれますよ。そうそう、中学を卒業するとき、国語の先生が色紙に『深刻なときでも一人だけ深刻ぶらない面白い男だった』と書いてくれたんです。確かに、みんなが気落ちしたり沈み込んだりしているようなときでも、何とかみんなを笑わせようと一人でバカ言ってました。根っからのバカですね(笑)」
――ネアカの渡辺さんにとって高校受験は?
「高校なんて普通に通ると思って受験は筑紫丘高校一本。私立は受けていなかったんです。ところが不合格。大濠高校の2次募集があったので、あわてて願書出して猛勉強。人生振り返っても、この一週間ほど真面目に勉強したことはないですね」
――そうして入った高校はいかがでしたか?
「男子校なんて男ばかりで面白いはずがない。女の子がいるらしいと、市内にあるサークルに入り、中学の同級生たちとバンド活動を始めました。フォーク全盛期、須崎公園に同世代の若者たちが集まって歌って。KBCラジオの『歌え若者』に出たことも。そんなことやっているうちに、成績は学年1000人中10番から270番に下がり、特別クラスから普通クラスに転落。それでも『志望は国立大学』と言うと、担任から『バカか。お前が国立に通ったら校庭を逆立ちして歩いてやる』と言われたんです。それで『何くそ』と発憤して次の期末テストはクラスでトップに」
――やる気になれば、できるんですね。
「だけど続かない(笑)。2年生の後半からは、生徒会活動を通じて知り合ったヤツの影響でビートルズにかぶれ、酒を飲みながら語り合って。高校生のくせにスナックにキープ入れたりしてました」
――佐賀での学生生活はいかがでしたか。
「あまりの田舎にガックリきて。授業も面白くないし、週末が待ち遠しくて。金曜になると博多に帰っては遊び回ってました。ところが、フォークソング研究会と出合って、音楽にどっぷりつかったバラ色の学生生活に。コンサートの司会やったり、ラジオ番組に出たり。女の子がけっこういたもので、もちろん、恋のさや当ても(笑)。当時の佐賀大名物は『バカの特美(教育学部特設美術課)か、アホのフォーク研か』と言われるくらいで、バカなことばっかりやってました」
――バカなことって……?
「三輪車で学内一周レースだとか、毎日バス停を大学正門まで1mずつ移動させるとどうなるかの実験。『猿の惑星』のお面をつけて交番の前まで行けるか、佐賀玉屋のスクランブル交差点の真ん中で深夜どれだけ長く寝ていられるかのコンテストとか。とにかく『バッカじゃないの?』って言われることばかり」
――子どもの頃の「人を笑わせる」楽しみがダイナミックになった感じですね。
「笑われることが人生の目標(笑)。授業にはまったく出ず、出席は後輩に頼み、カンニングもチームプレー。『奇跡の進級、奇跡の卒業』でした」
――就職先として、損保業界を選ばれたのはなぜですか
「たまたまです。流通関係の営業や企画なんかが楽しそう、と思ったのですが、オイルショック後の一番厳しい時で、コネで受験し、内定が一番に出たので就職活動は即終了しました。
東京の本社で研修を受け『花の東京で新しい人生を!』と意気込んでいたところ、赴任地は佐賀支社で、またガックリ。ですが、損保の営業、代理店回りもやってみるとなかなか面白く、『よし、しばらく女遊びもやめて仕事一筋!』と決意。それから一年もたたないうちに結婚しましたけど(笑)」
――損保一筋30余年、順調でしたか?
「これでも結構、営業成績良くてですね。佐賀支社、福岡支社時代に何度も日本一になったんですよ。ただ東京本社は、さすがにカルチャーショック。九州と違って人間関係がクールで。それもどうにか慣れてきたと思ったら、今度は保守本流のチャンピオンみたいな上司が赴任。何が気にくわなかったのか、私が生け贄にされて、企画書を出せば『なんだ、幼稚園児か!』と破り捨てられ、『こいつが変なことをしないか見張って報告しろ!』と尾行までつけられました。まさに、ロベスピエールの恐怖政治。とにかく結果を出して見返してやろうと。酒と接待のあとまた職場に戻って仕事。徹夜の連続でした」
――ひどいパワハラ。よく持ちこたえられましたね。
「もともと能天気なもので。一生懸命やれば道は開けると単純に考えていましたからね。何とか大口契約を奪取して昇進したのはいいけれど、40歳で末期の糖尿病という診断が下されました。若い頃からの不摂生、暴飲暴食がたたったのでしょう。さらに、48歳で本社部長に昇進した二年後に合併症の慢性腎不全を起こして。最後は『現場』でと人事に交渉し、横浜支店長に。そこで情報の共有化システムや若手育成、女性の登用など、やりたいことをやり尽くした感もあり、55歳の役職定年を機に退職しました」
――福岡に戻られてからまた意欲的に活動されています。
「学生時代のフォーク仲間に税理士、システム屋などいろんな連中がいて、ネットワーク組んで事業を立ち上げようと。その手始めが新しいスタイルの本屋の企画と運営。コーヒーを飲みながらの読書や毎日イベントが開催される、新しいタイプの参加・体験・交流型書店としてメディアでも話題になりました。残念ながら諸事情でこの春、閉店しましたが」
――また面白い仲間たちと次の企画がわいてきそうです。。
「福岡に帰ってきてから新たに知り合った人が既に1000人以上。特に若い人たちとの出会いが楽しくて。自分の経験を生かしてアドバイスしたり、人脈を使ってマッチングしたり。みんなでハッピーになれるようなこと、やっていきたいですね」
――いつも楽しそうで、とても大きな病を抱えられているようには見えません。
「自称『日本一元気な重病患者』ですから(笑)。数値はものすごく悪くって『からだが動くはずない』って言われるんですけど、ホラこの通りピンピンしてるでしょ。ほんと、気持ち次第なんですね(笑)」
氏名 | 渡辺 俊洋(わたなべ としひろ) |
会社名・団体名 | エッジコンサル |
所在地 |
〒815-0081 福岡市南区那の川1-12-14 |
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インタビューを終えて
「渡辺 俊洋」考
九州経営リスクマネジメント協会 河津 祐二
とにかく、話がうまくて楽しい、面白い。キャッチーな言い回し、「ネタか?」と思われるような面白い話題が次から次と飛び出し、プロのコピーライターや下手な芸人も顔負けだ。幼い頃から「人を笑わせること」が大好きで、いかに笑ってもらえるかに心を砕いてきた渡辺さんならではの「芸」、偉大なスキル、神業の域に達しているとは言い過ぎだろうか。
ただ、いつもニコニコと人前で明るくふるまう人には、いくつかのタイプがある。太宰の「道化」ではないが、実は極めて繊細で、傷つきやすい自分を守るための笑顔、プライドや矜持を隠すための「バカなふるまい」だったりすることも多い。しかし、渡辺さんが自認する「根っからのバカ」には、どうしても、そのような「もうひとつの顔」が窺えない。「興味があったらすぐ行く。面白いものにはすぐ飛びつく。人混みには出て行く。要はでべそ」という渡辺さん。人生も仕事も、なにより自分自身が心から楽しむことで道を拓き、実績を残してきたようだ。
「いい加減で適当な楽天家。根拠なき自信でここまでやってきたんですよ」と自らを笑い飛ばす。そう言える渡辺さんだからこそ、人生のさまざまなステージにおいて、環境を最大限に生かして力をつけ、ひょっとすると逆境をも楽しみながら、人脈を広げ、豊かな日々を送ってこられたのだと思う。
自分が楽しんでこそ、人を巻き込み、周りをハッピーにすることができる。同窓生たちと会社を起こすともに、若い人たちとの出会いが楽しく、彼らの力になりたいと願う渡辺さん。フクオカの次代を担う若者たちよ、これを生かさない手はない!
「人間、死ぬときゃ死ぬ」がモットー。そう、一度きり、限りある人生。渡辺さんのように、楽しく、思いっきり生きていこう!