平井 良明 (ひらい よしあき)
株式会社イーハイブ 取締役統括責任者
――東京、大阪と飛び回っている平井さんですが、どんなお子さんだったんですか?いつも楽しそうにお仕事されてますよね。
「おとなしかったですよ。学校でも手を上げないし、目立つの嫌いだし、人前でも話さないような…」よく言われますが、実は内気なんですよ(笑)。
――今の仕事とは正反対ですね(笑) いつ頃が転換期に?
「高校の時ですね。福岡市東区の香住丘高校の一期生だったので、先輩はいないし、好きな部活を自分で作ったりして、自由でしたね。先生たちとも仲良かったから、強要されることもなく、先生たちとみんなで高校を作り上げていった感覚がありました」
――大学は、九州工業大学に進まれています。
「情報工学部で、創部3年目だったんですが、私が入った生物化学システム工学科はできたばかり。ここでも先輩がいない状況で(笑) 」
――『西日本初!理科系大学発学生起業家』として新聞などに取り上げられていますが、どういう経緯で『起業』することになったのでしょう?
「1995年8月に就職先の内定をもらっていましたが、この会社にずっといるのかな~と。私が小さい頃、父は大学の夜間に通い、国鉄を退職して鍼灸師になっていました。それで将来的には、父の仕事を手伝ってもいいな、とも思ったりして、もやもやしてたんです。
それに、研究室の教授から、米国では大学院卒業後は起業するのが一般的だという話を聞いていたので、研究室の仲間たちと『会社でも作りますか』みたいな話になった。それで、本屋に『会社の作り方』という本を見に行ったら、「株式会社の作り方」という本しかなくて、でもそんな資金もない。そんな時、当時の通産省が、学生起業家を育てる方針を打ち出してきたんです。大学院では『起業家特論』という講義も始まり、北九州では起業家セミナーが開催されたりして、起業ブームが起こった。それで、俄然『会社作りたい!』という気持ちになって、資本金25万の会社を4人の仲間と起こしたわけです」
――でも、内定出てるとおっしゃってましたよね。辞退されたんですか?
「いや、ちゃんと入社しましたよ。社長は先輩に任せて、僕は普通に働こうと。でも、社長になった先輩が、研究に専念したいと言い出した。それで僕は1月で退職して、代表に就任したんです。サラリーマンはわずか10か月でした」
――注目もされたでしょうね。
「新聞にも取り上げられましたからね。反響もあったから、仕事依頼は来るだろうと高をくくってたら、全然で。当然ですよね、コネもないし、信用もないし、インターネットの文化もまだまだ。それで、知り合いに挨拶に行ったり、ネットの勉強会に参加したりして、少しずつ仕事をいただき、共同研究に参加したりもするようになりました」
――その後は順調に?
「少しずつですが、大学の医学部のHPを作ったり、自動車備品販売店のエアロパーツの検索システムを開発し、CD化して販売したりするなど、新しい仕事は増えていきました。その後、1997年に株式会社へ。親や親戚にお金借りて、きっと何とかなるさと」
――楽観的ですね(笑)
「ほぼ同じ時期に、結婚してるんですよね。結婚した当初は、給料0でした」
――奥さん、大変だったでしょう。
「ですね。ただ、奥さんの実家も事業をしていたので、その大変さはわかってたみたいで、あまり何も言わなかったですね、私には。生活は、サラリーマン時代に貯めていたお金で、なんとか。でも、なかなか売り上げが上がらなくて、1999年に一人目の子が生まれた月の給料は、5万円でした」
「順調にいくようになると、人を採用したくなります。でも、うちは共同経営でしたから、指示系統がなかなか一つにならない。入った社員さんも、困ったでしょうね。
転機になったのは、開発したブログシステムの評価が上がって、東京の会社からオファーを受け、出資もしていただけるようになった時でした。その会社の方から、『会社が組織になってないね』と指摘を受けたんです。やはり代表は一人でないと、決断のスピードとか指示系統の1本化など、課題が出てくることに気づいたので、社長の役をその会社の代表に預け、自分たちは平取に降りることにしたんです。」
――少し、肩の荷が下りたんですね。
「でも、東京の会社から出資いただき、スタートした直後、サーバートラブルが発生してお客様のデータがすべて消えるという大問題が起きて…」
――それは、大変な事態ですね。
「何とかデータをかき集めて、復旧させる作業を、2日徹夜して行いました。ただ実際の作業は、技術者である社員たちがやってくれている。私は何もできないので、うろうろしながら、見ているしかない。だからと言って、帰るわけにもいかないし、寝れないし。何もできないままの2日間は、本当に辛かった。『8階から飛び降りたら、楽なのにな』と思ってましたね。」
――どう気持ちを切り替えたんですか?
「うちを管理してくれている総務の上司から、『あやまるしかないじゃん』と言われて、『あっ、そうか』と。じたばたしても、仕方ない。そう思ったら、少し楽になりました。
その後、私は取締役統括責任者として、今の会社を切り盛りしながら、月に1度は本社に報告兼ねて出かけています。東京に行くのは、実はそのためでもあるんです。
仕事をする上で大切にしているのは、何よりもお客様を喜ばせること。ソーシャルメディアを活用すると『こんなことができるんだ!』と感動していただくことが、一番のやりがいだと感じています」
――「つなぐ」というのも、平井さんのお仕事のひとつになっていますね。
「HPなど、WEBについていろいろ質問していただける自由な場『オープンイーハイブ』や『東区オフ会』、山口の経営コンサルタント・中村伸一さんとコラボしている『ビジネス交配会』など、さまざまな「集う」場を作ることで、人と人が繋がり、広がっていくことを目的に活動しています。
自分が紹介した人と人が、知らない間につながっていて、新しいビジネスなんかを始めていたりすると、本当にうれしい。陰に隠れて、ニコニコしてたりします(笑) 大企業にいようが、中小企業にいようが、大切なのは、どんな人とつながっているか。低空飛行でいいので、地道に、ネットワークをさらに広げていきたいと思っています」
氏名 | 平井 良明(ひらい よしあき) |
会社名・団体名 | 株式会社イーハイブ 取締役統括責任者 |
所在地 |
~福岡オフィス~ |
関連ホームページ | 株式会社イーハイブ コムログクラウド すまっぽん! |
インタビューを終えて
「平井 良明」考
有限会社メディア・ジャパン 分藤 宗徳
「自分のことをどう思うか」と聞くと、「勝手」だと語る。また、失敗するのが嫌だから、人前でチャレンジはしないとも。そんな「エエカッコしい」の平井さんの根っこにあるものは、「やりたいことを、楽しくやる」というシンプルなものだ。そして、その基礎を作っているのは、まぎれもなく幼少期である。
といっても、両親が何か特別なことをしていたわけではない。どちらかというと、あえて何もしなかったと言えるかもしれない。というのも、「親から、何か強制されたり、勉強しなさいとか言われたことがない」と平井氏が語るように、自由にのびのびと育てられているからだ。
そのためか、自分が楽しいと思えること、やりたいことを率先してやってきた。高校時にテニス部を立ち上げたのもそう。そして、起業したのもそうだ。自分の気持ちに素直に、まっすぐに。きっと、そのエネルギーに引き寄せられて、多くの仲間たちが集まってくるのではないだろうか。
自身が誰からも強制されたことがないせいか、「社員に対して強く言えない」ことを課題に挙げる平井氏。しかし、平井さんが育てられたように、社員の皆さんも自主的に動いているように見える。「そうだといいんですけどね」と笑う平井さんだが、トップの実行力・実践力に刺激を受けているのは間違いないだろう。
また「継続力」も強みの一つ。「オープンイーハイブ」などの集いの場の提供だけでなく、実はご自宅のトイレ掃除も10年継続しているとか。また動物占いでは「おおかみ」だそうで、一匹狼なところもあるが、自ら率先して動くことで、周りは自然に影響を受け、各々で動いたり、集まったりするようになる。平井さんが狙っているのは、まさにそれ。私たちも、知らないうちに、「平井マジック」にかかっているのかもしれない。