永野 明(ながの あきら)
障害者アスリート
プロハンドサイクリスト
障害者プロレス団体「FORCE」代表
――物心ついた頃から、ご自身の障害と向き合ってこられていますよね。
「僕は、幼少期に車いすを使ったことがないんですよ、『歩く』ということで鍛えられましたから。でも、障害がある子どもとしては特別なことは何もしてなくて、普通に生活してきました。小中学校も普通の地元の学校へ通いましたし、「いじめ」とか、わざわざ言うようなことはありませんでしたね。しいて言えば、ドッジボールの標的になったりとか。でも、それは当たり前のことかなと」
――やはり、お母さまの教育方法がポイントになりそうですね。
「僕にとって母は、専属トレーナーみたいなものでしたからね。とにかく厳しかったですよ、本当に。毎日毎日、母と共にリハビリをしなきゃいけなくて。これがきついというよりも、毎日のことだったから、厳しいことが当たり前になっていましたね。今日はやめたいと思っても、母はその日のメニューが終わるまで、僕が泣いて嫌がっても、毎日こなしていました。母はいつも言ってました。『今日さぼったら、3日前の状態に戻るよ』と。母自身も、そのことが怖かったのかもしれません。成長する過程で、僕の身体がどうなるかは、誰にもわかりませんでしたから」
――お母さまも、辛かったでしょうね。
「一般的な母親の愛情というよりも、それ以上の『親』の使命感のようなものがあったのかもしれません。リハビリの中で、博多の箱崎海岸の砂浜を歩行訓練していたんですが、砂に足が取られて転んでも、絶対に手を貸さなかった。そういえば、こんなこともありました。僕が砂浜を一生懸命歩いていたら、突然横から母の足が出てきて、わざと足を引っかけて転ばせるんです」
――どうしてそんなことを…
「もちろん、意地悪じゃないですよ(笑)。これは、『こける』ためのトレーニングなんです。今までのことを振り返ってみたら、こういったトレーニングのおかげで、転んでも大きな怪我をしなかったんだなと思います。言わば、転ぶ練習だったんですね。とっさに手が顔の前に出るなど、自然と受け身も身について。母はわかっていたんですよ。自分が先に死んだら、僕が一人になるということを。母の考えを汲むには、大人なってから随分時間がかかりましたが、母をはじめ家族に感謝です」
――お母さまの教育は、別な視点でも特別だったそうですね。
「幼少期の手術についても、母は医者に対して『私は本人じゃないから、わからない』と言い、その時が来たら僕に考えさせたいと言ったそうですし、小学校に進学するときには、リハビリを一緒にしていた友だちと同じ特別支援学校(当時の養護学校)に行くか、従兄弟のお兄ちゃんが通う普通校に行くかのどちらがいいかを聞かれ、自分で普通校を選びました。母は、僕が『一人の人間』として生きていかなければいけないことを、「選択する」ということで教えていたのかもしれません。
それから、これも幼少期の話ですが、母は僕によく、留守番をさせて、役割を与えていました。例えば『お米やさんが来るから、もらっておいてね』とか。すると、どんな人が来るんだろう、とか、なんて話したらいいんだろうとか考えるでしょ。そういう経験すべてが、僕の基礎を作ったと言えると思います」
――高校卒業後、上京して就職された。思い切った決断だったと思いますが。
「これも、特別なことではなかったですよ。実家を出る友だちが多く、僕自身も家を出ようと思っていました。母の知人のつてで、東京の製版会社に就職し、6年間勤めました」
――その間に、衝撃の出会いがあった。
「ある日、仕事帰りにふらっと立ち寄った本屋で、『無敵のハンディキャップ―障害者が「プロレスラーになった日」』(文藝春秋刊・北島行徳著)という本を見つけた。読み終わって、即『会いに行こう!』と障害者プロレス団体『ドックレッグス』に連絡をし、ミーティングに参加したんです。それで、『何かお手伝いできることありますか?』って言ったら、『君ができることは、レスラーになることだよ』と言われて。4か月練習して、プロレスデビュー(笑)。今じゃありえない話ですけどね」
――すごい早さですね。デビュー戦は、いかがでしたか?
「実はあまり覚えてなくて。ただ、ここでは『障害者の永野明』であることにスポットが当たることがうれしくて、あっという間に終わった感じ。でも、翌朝目が覚めたら、身体中が痛くて、満足に身体を動かすことができず、いつものトイレが遠く感じる状態でした。えっ、仕事ですか? もちろん仕事は、休みましたよ(笑)」
「不景気から製版会社にリストラの波が来て、僕もその対象に。仕方ないとその時は思っていたんですが、無職になって家に帰ったとたん、涙が出ました。生きる基盤を無くしたというか、社会的に必要が無いと言われたような気がして…本当にショックでした。それから就職活動をはじめ、凸版印刷株式会社を受けたら、人事の方が『縁があったらご連絡します』と言ってくれた。そのまま最終面接まで進み、無事に入社。この会社では、本当にいろんな勉強をさせていただきました」
――例えば、どんな?
「飲料メーカーのキャンペーンで、シールを集めて応募したら何か当たる、みたいな営業支援の仕事をしたり、時にはキャンペーン当初から携わらせていただくこともありました。タスク管理やスケジュール管理、業務管理、スタッフやコールセンターのパートさんたちの管理など、幅広い管理業務も経験しましたし、応募してくるお客様の個人情報の管理もあるので、SEとシステム構築の話をしたり。ビジネススキルが身についたのは、この時期かなと思います」
――「TE-DEマラソン」をスタートさせたのは、この頃ですね。
「24時間テレビで、マラソンやってますよね?それを当時の彼女、今の奥さんと一緒に見てたんです。テレビで完走して出演者が泣いてるから、『達成感の涙って、よくわからん』と言ったら、彼女が『やってもないのに、文句言わんでもいいやん?』と。それで頭に来て、やってやろうじゃないかと(笑)。
どうせなら福岡まで行こう。東京=福岡間は1200キロ。車椅子で走るのか、どうするのか。知人に相談したら、ハンドバイクという乗り物を教えてもらった。たくさんの人に知ってもらおうと、『東京から福岡までハンドバイクで走るよー』と話して、2006年には永田町の議員会館で記者会見をして、退路も断った。あとは、ひたすらトレーニングし、少しずつ走る距離を伸ばした。不安もありましたが、僕には仲間がいる。支えてくれる人、手伝ってくれる人がいる。そういった、自分自身の『巻き込み力』が、『アスリート+障害者』の僕の強みです。おかげで、『2010年九州一周』『2011年日本縦横断』など、たくさんのチャレンジをさせてもらいました。
その後、友人の紹介で北九州の企業とご縁ができ、その他さまざまな企業支援をいただきながら、社員+選手という生活を送っています。障害者スポーツを理解してくれる珍しい、いい会社なんですよ。(笑)」
――ご自身の今までを振り返って、いかがですか?
「僕はとにかく、メンターに恵まれました。信頼できるメンター(助言者)に出会えるかどうかは、人生においてとても重要だと思っています。僕の場合、整体施術を通してリハビリをサポートしてくれた廣戸先生や、障害者プロレスの道を教えてくれた「ドッグレックス」の北島代表との出会いは大きかった。
今は、福岡で立ち上げた障害者プロレス団体『FORCE』の代表として、興行を通してお客さんに楽しんでもらったり、現在パーソナリティを務めているラジオ番組を通して『伝える』ことの勉強もさせていただいたりしています。これからも、障害者だからできない、というボーダーラインを作らず、『まずやってみる』という姿勢で、たくさんの人の背中を押す活動を続けて行きたいですね」
氏名 | 永野 明(ながの あきら) |
会社名・団体名 | 障害者アスリート プロハンドサイクリスト 障害者プロレス団体「FORCE」代表 |
所在地 |
〒813-0042 福岡県福岡市東区舞松原2-7-11 |
関連ホームページ | http://www.naganoakira.jp/ |
インタビューを終えて
「永野 明」考
ICI株式会社 島田 昭規
障害をプラスにとらえ、障害者である自分自身を前面にPRする。そんな永野さんという存在は、驚き以上にまぶしく、輝いて見える。そして、「あー、そんな生き方もあるんだ」と気づかせてくれる。「もっと、好きにやっていいんだ」とも思わせてくれる。ありきたりな表現だが、元気をもらえるというのは、こういうことなんだと思う。
そんな彼の周りには、いつも女性たちがいる。凸版印刷時代、80人のパートの中年女性を「お姉さん」と呼び、一緒にお弁当を食べ、良い関係を築いた経験を持つ。「お姉さん」と呼ばれたパートさんたちは、そのうちおしゃれを気にし始め、モチベーションも上がったというから、なかなかの策士だ。逆に騙された経験もあるというが、「支えてくれたことに対し、感謝の言葉しかない」と話す。
愛されるキャラクターである永野さんが大切にしているのは、三つの命「宿命・運命・使命」だとか。障害者であるという「宿命」を背負いながら、自分らしく、自分の力で生きるという「運命」に従い、誰かを喜ばせ、勇気づけるという「使命」を楽しみながら全うする。誰もが目指したい、憧れる生き方を進み続ける姿があるからこそ、多くの人たちがエールを送るのだろう。
そんな彼は、自分を支えてくれたメンターの存在を忘れない。自分を支え、背中を押してくれたありがたい存在。きっとこれからは、彼が、たくさんの人たちのメンターとなっていくのではないだろうか。
「2020年東京パラリンピック」出場を狙い、今日もハンドバイクに乗り、腕を回し続ける永野さん。どこかで出会ったら、声をかけてみよう。飛び切りの笑顔で、応えてくれるに違いない。