山中 勇輔 (やまなか ゆうすけ)
エアドライブ株式会社 代表取締役CEO
「転勤族の家に生まれたもので、小学校も中学校も高校も、入学校と卒業校が違うんですよ。幼い頃から転校を繰り返す中で、環境に対する順応力は鍛えられました。見知らぬところでもどうやって周りにに溶け込み、新たな関係性を構築していく術にはたけていると思いますね」
―放送業界を選んだのも、そんな自分の個性が生かせると思われてのこと?
「中学生の時、テレビの現場を描いたドキュメンタリーを見たのがきっかけです。大きな機械に囲まれて、『放送業界ってカッコイイな~』と」
~ですが、大学はカタク(笑)日本史を専攻されています。
「日本史は趣味なんです。小学校6年の誕生日祝いにマンガの「日本の歴史」18巻セットを買ってもらって以来。日本史だけは全国模試で10位に入るくらいでした」
―それはスゴイ!秀才だったんですね。
「いや、ほかの教科は見るも無残にズタボロで(笑)。本当は日大の芸術学部に行きたかったけれど、人気学部で“狭き門”。なら専門学校へと思ったんですが、親から『大学くらいは出ておけ』と。母校に中央大学の国史学専攻の指定校推薦枠があったので、学内推薦を経て高校3年次の10月には合格決定。いわゆる「受験勉強」で苦しまず楽しました(笑)」
―宮崎から東京へ。学生生活はいかがでしたか。
「入学と同時に学内の放送研究会に入って映像制作やラジオ番組の自主制作に明け暮れる日々。楽しかったですよ。でも、所詮サークル活動じゃないですか。やっぱりプロの現場に入りたいなぁと、2年次からはインカレの組織を通じてFM横浜などで、ラジオ番組の構成やミキシングを経験させてもらいました」
―そして就職は故郷で希望通りの放送業界。順調じゃないですか。
いえいえ、とんでもない。大学4年生を迎えたのがリクルートが初めて『就職氷河期』という言葉を出した1995年。大手出版社は採用ゼロ、放送局も例年に比べれば激減。新幹線と在来線を乗り継いで全国の地方ローカル局を回りました。100社ほど訪問したけれど、どこにも引っかかりません。世の中から自分が必要とされていないような気がして、さすがに落ち込みましたね。
何とか宮崎の番組制作会社から内定が出たところに『宮崎でケーブルテレビ開局 予備免許付与』というニュースを聞いて即座にアプローチ。入局が決まったのは卒業直前の2月のことでした」
「とはいきませんでした(笑)。技術・制作部に配属されて番組制作担当で、2年くらいはよかったんですが急に当時の経営陣が『自主制作はやめて100%外注にする』と言い出したんです。『僕たちディレクターはどうなるんですか?』と聞くと『営業に行け』と。
営業がイヤというわけじゃないんです。何の戦略もなく、住宅地図片手のローラー作戦で何ができるのかと。当時はちょうどスカパーが始まった年。到底多チャンネルでは勝てっこありません。自分なりの戦略を提案しても、当時の営業部長は『新卒2年目の若造に何が分かる』と一切とりあってくれません。これはついていけないなと、というのと、制作の仕事を続けたいという思いもあり、退職届を出しました」
―それからしばらくは、フリーのディレクターとして活動されていたんですね。
「はい、福岡で主にCROSS FMの番組制作に従事。仕事はキツかったですが、楽しいものでした。ただ、この業界は深夜業務・徹夜もザラ。当時は20代で健康管理などに気をつけることもなく、無理していたんでしょう。半年でダウン。ドクターストップがかかって『契約不履行』という汚名を残して宮崎に帰る羽目に。しばらく静養していたところに『宮崎にコミュニティFMをつくるので協力して欲しい』と声がかかったんです。喜んで、準備委員会から開局まで力を尽くしたんですが、開局間もなく局内で内部抗争が勃発。そのあおりをくって会社にいられなくなり、揚げ句には悪意に満ちた怪文書まで巻かれてしまって(苦笑)」
―厄介なことに巻き込まれましたね。20代の身にはこたえたでしょう。
「はい。ですがまだ24歳。ケーブルテレビ時代の上司の勧めもあり、もう一度、東京へ出て勉強することを決意し、一年間バイトして貯金して上京し、東京ケーブル・プロダクション(以下「TCP」)の契約社員として再起することができました。そしてTCPの契約満了間近に、某県域FM局からヘッドハンティングの話が舞い込んできたんです。正社員雇用の話に浮気心を起こしたのが運のツキ。TCPとの契約を終了させた後に、そのヘッドハンティング話が消えてしまったんです。正直途方に暮れました。ようやく道が開けつつあったのに、もうメディアでは働けないなと。本気でそう思いました」
―二転三転、大変でしたね。でも、それがネット業界へ転身するきっかけになったのでは?
「確か、ADSLの8メガ開始が発表された年だったと思います。当時は『ADSLって早いらしい』『Flashコンテンツって何?』というくらいネットに疎かったんですが、これからはこういう知識が必要かもしれないとは漠然と思っていたんです。また、当時の自分は制作のスキルしかなく、30歳までに営業とネットのノウハウを身につけないとこれからの時代に生き延びていけない、と。結果的にFM局への転職が頓挫したから今の自分があるのかもしれません」
「Look Up,Not Down.」
必ず道は開ける
―何が幸いするかわからないものですね。飛び込んだネットの世界はいかがでしたか。
「いろいろなことがありました。最初に入った会社は、トップが暴力的で、会議のたびに管理職の流血が日常茶飯事。次の会社は誰でも知っている大手ながら、トップの周りはイエスマンばかり。採用半年で退職勧奨を受け、路頭に迷いかけました。3社目のメディア工房で初めて『コンテンツビジネス』というノウハウを得ることができて、社内ポジションも昇進していったのですが、重圧もあり、職場で倒れて救急車で運ばれたり…こんなのばっかりですね(汗)」
―真面目すぎるというか、やり過ぎるタチなんですね。独立のきっかけは?
「メディア工房を辞めて携帯電話コンテンツ会社にいた時、メディア工房の創業者から連絡をもらって、『自分のキャリア、スキルをどう考えているのか?』と尋ねられたんです。『ずっとサラリーマンを続けるのか?自分で何かをやるつもりはないのか?』と。既に31歳になっていましたが、PCとモバイル両方のコンテンツビジネスを経験して『30歳までに営業のノウハウを身につける』という目標は達成したという自信はありました。40歳までは失敗しても取り返していけるかなと思い、その人の勧めで独立に踏み切ったわけです」
―倒れては、それを機に新たな道へと踏み出され……七転び八起きどころじゃないですね(笑)。
「それだけ失敗が多い人生(笑)。いい人が周りにいたというか、岐路となるタイミングで常に引っ張ってくれる人がいたんだと思います。人は必死になってやっていれば必ず道は開けるというのが僕の信条です。『セカイカメラ』を作った井口尊仁氏の言葉ですが、『Look Up,Not Down』ですね。
この世界って、一歩間違うと、サービスよりマネーゲームの話に流れかねない面があります。自分は『それはお金儲けだけど、ビジネスじゃない』と思うんです。東京のIT業界に魅力を感じられなくなり、本拠地を東京から福岡に移した理由の一つが、マネーゲームではなく『サービスをきちんと人に届けていきたい』ということ。ソーシャルメディアやクラウドサービスを通じて、いろんな地域が直面している課題・難題を解決する、『地方活性』のほんの一端でもお手伝いできれば、僕が九州・福岡でやっていることの意味があるんじゃないでしょうか」
氏名 | 山中 勇輔(やまなか ゆうすけ) |
会社名・団体名 | エアドライブ株式会社 代表取締役CEO |
所在地 |
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前4-30-31-401 |
関連ホームページ | http://airdrive.co.jp |
インタビューを終えて
「山中 勇輔」考
flowers very smile. 吉村 かおり
意外なほどに苦労人だ。と言えば失礼にあたるだろうか。
一世を風靡した「セカイカメラ」などの実績はもとより、自信に満ちた語り口、人を引きつけてやまない話術、さらに放送業界からネット業界への転身といった経歴からも、時代の変化に鋭敏で、目端が利くタイプ、少々、軽口で言うなら「頭の回転が速く、要領のいい人間」といった印象を抱かせる。
しかし、体力の限界にまで自分を追い込んではダウン、結果的に職を失ったり、人を信用あるいは期待しては裏切られたり。テレビ番組の「しくじり先生」のネタになりそうな大きな失敗は、一度や二度ではない。が、マイナスをプラスに転化。失敗体験をきっかけとして、次から次へと新しい地平に踏み出しているのが山中さんのスゴイところだ。
「幼い頃から転校を繰り返す中で身につけた順応力の高さ」が根源にあるようだ。「家族は一つであるべき」をモットーに、単身赴任なんてあり得なかったというお父様の職業は宮崎県警の警察官。「親の手前、悪いことは何もできなかった」と山中さんは言う。駄菓子屋での万引やピンポンダッシュ、民家に野良猫を投げ込んだりといった多くの子どもたちが経験するちょっとしたいたずらさえ自ら固く禁じ、そのことに窮屈さを感じたことはなかった、と。
要領の良さではなく愚直なまでの生真面目さで勝負。「人間、必死になってやれば必ず道が開ける」というあまりにも真っ直ぐな信念は、幼い日々から育まれてきたのだろう。
「借金をするな・保証人になるな」という父の教えを守り、融資も投資も固辞して無借金経営を貫く山中さん。その堅実さ、着実さが個性であり武器であることは重々承知しながらも、一方で、あえてリスクをとり、チャレンジする山中さんの姿を見てみたいような気もする。第三者の勝手な夢想なのだけれど……。