平木 修一 (ひらき しゅういち)
Advance
――柳川のお生まれですね。
「旧三橋町、西鉄柳川駅のすぐ近くです。母の実家が亀山ビットという鉄工所を営んでいたんです。父の実家は大牟田の病院。父と母は医者と薬剤師として出会ったんですが、結局、父は医者を辞めて母の実家の鉄工所に入ることに」
――おや、それはなかなかの決断ですね。スゴイ恋愛だったのか、よほど大きな会社だったのか……。
「削岩機用ビットの特許を保有していて、黒部ダムやチリの鉱山開発といった一大事業に使われていたんですよ。祖父は早く亡くなり、社長は祖母。外国の方との取引も多く、年の半分くらいは東京に行ってました。祖母に連れていかれていた私は、幼稚園の出席日数が半分くらいなんですよ」
――えっ? どういうことなんでしょう?
「祖母に連れられて、一緒に東京や名古屋に行ってたんです。亀山家で男の子としては初めての孫で、かわいがられたんです。幼稚園児がスーツ着て、蝶ネクタイ締めて銀座のクラブに出入りして……生意気ですよねえ(笑)」
――今の平木さんから、ちょっと想像つきませんが……。地元では浮いてたんじゃないですか?
「方言を使わず標準語でしゃべるように厳しくしつけられていたから、まず言葉が違う。小学校で自分のことを『ボク』と呼ぶのは一人だけでした。同級生も先生たちにとっても、扱いにくい“ませガキ”だったと思いますよ」
――その後も銀座のクラブに通い続けていたんですか?(笑)
「いえ、小学生までです(笑)夏休みに上京していたのは。中学生になるとバレー部に入ったり、生徒会長に立候補したり。地元でアクティブになりましたから」
――ようやく普通の中学生に(笑)。高校は「伝習館裁判」で知られた学校ですが。
「最初は、医学部を目指して真面目に勉強していたんですが、2年生で生徒会の副会長になったんです。九大ファントム墜落事故や東大の安田講堂事件など学生運動真っ盛りの時代。伝習館にも過激なグループが生まれ、夜を徹して討論。一方では『中道』路線の私でさえ右翼に狙われるなど、すさまじい攻防の中、とても勉強どころではありません。3人の教師が処分され『伝習館裁判』が始まったのが卒業翌年のことでした」
――熱い高校時代を経て、大学はいかがでした?
「自分の原点をゆっくり考えたくて、学生運動とは距離を置き、日本民俗学のサークル活動。あちこちフィールドワークに出向き、民話を採取したり、研究成果を本にまとめたり。それで大学院進学を考えていたのですが、当時の彼女から結婚を迫られ、『大学院に行かなくても教員なら勉強できるだろう』という甘い考えで教職へ進路を切り替えたんです。ところが、その後、あっさり彼女にふられまして……。傷心の旅に出るつもりで、兵庫県の高校に赴任しました」
――人生の大きな転機でしたね。ところで、勉強・研究は続けられたのでしょうか。
「それが、甘かった。赴任先は、兵庫でもワースト3に数えられる荒れた高校。初日に先輩から受けたアドバイスが『ネクタイを締めてくるのは辞めろ。首、締められるぞ』の一言。窓ガラスは大半、割れているし、屋上から自転車が落とされる。机といすが足りないと思ったら、ストーブで燃やされていたり。とんでもない状況でした」
――勉強どころじゃないですね。逃げ出したくなりませんでしたか?
「もう、とことん向きあうしかないと腹をくくりました。荒れるには荒れるだけの背景があるんです。経済的な厳しさや複雑な家庭環境などなど。家庭訪問に行って、父親から刀振りかざして追い返されたり、何時間も外で待たされたりもしました。
生徒たちは集団だと、そっぽ向かれて反抗されるばかりで、なかなか私の伝えたいことも通じません。ですが、一人一人になると違う。それぞれ個性があって、とってもいい子たちなんです。何とかして人間関係をつくりあげて、いいクラス、納得いくクラスをつりあげることができました。逃げずに、きちんと向きあっていけば、子どもたちはいつか必ずこたえてくれる。そう教えてくれた学校でした」
――福岡に移られてから、新設高校立ち上げに3回携わられたとか。
「はい、最初は福岡県初の英語コースを持つ香住丘高校。ここで最初に担任したクラスの一人がイーハイブの平井君です。次が、初の単位制高校・博多青松高校。毎朝、登校して夕方まで授業を受けてその後は部活動という全日制高校しか経験していませんでしたから、単位制高校なんてまったくわかりません。教育庁の指導主事として、北海道や東京、静岡など全国各地の単位制高校を視察・研究しました。
実はちょうどその頃、次男が中学1年でいじめに遭って、学校に行けなくなっていたんです。福岡県では高校中退率が全国トップクラスの高さで、中退・不登校が社会問題化。学び直しの機会が求められていたのですが、私は仕事が『不登校生の父親』としての課題に直結。『どうしたら、この子が学べる学校になるのか』『卒業後、その先に道が開けるようなシステムを作らなければ』と必死でしたね」
「狭心症の発作を起こして救急車で運ばれ手術。一週間休んで復帰したら、また発作。その繰り返しで、とうとうICUの中で、50歳を前にして退職届を書きました。主な原因はストレス。当時1年間に3日しか休みをとれませんでした。さらに、保証人になった相手が行方不明になったため莫大な借金を負うこととなり、前の年に建てたばかりの家を売って破産宣告。心労が重なったんですね」
「いろんな人に相談したんですよ。福岡県で一番若い教頭でしたから、ちやほやもてはやされていたのが、手のひらを返すように冷たくあしらわれて。人間不信に陥り、鬱状態で自殺しかけたこともあります」
――聞くだけでも辛くなります。どうやって立ち直られたのでしょうか。
「自分を変えなきゃいけないと、中洲の居酒屋でアルバイトを始めたんです。エプロン締めてフロアに立って注文をとり、料理を運ぶ。最初は人前に出ること自体が怖くて、サングラスをかけないと家を出られませんでした。半年間続けて、どうにか再び人と向き合えるようになりました」
――平木さんが、最も心のよりどころとされたものは何でしょうか。
「祖母の教えです。『何をするにしても人がかかわってくる。人のつながりを大切にしなさい』とたたき込まれました。人間不信で人と会えなくなった時でさえ『一人では何もできない』『人とのつながりこそが力になる』とわかっていました。だからこそ、この世界に帰ってくることができたわけです。教員という仕事を通じて出会った多くの生徒たちや、私を信頼して支えてくれた家族・仲間に『生きる力をくれてありがとう』と言いたいですね」
氏名 | 平木 修一(ひらき しゅういち) |
会社名・団体名 | Advance |
所在地 |
〒811-1364 福岡市南区中尾3-25-18 |
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インタビューを終えて
「平木 修一」考
ITコーディネーター 庄司 晃
平木さんが大きな影響を受けたという母方の祖母は、明治生まれの日本女性にしては型破りの人物だったようだ。鉄工所の社長として海外取引の先頭に立ち、幼い孫を伴って銀座のクラブに出没。銀座でも目を引いていたのではないだろうか。平木さんの母親を含め女の子3人は全員東京の大学に進ませ、男の子は3人とも中学を出て即、鉄工所で働かせたというのも、ちょっと珍しい。
御曹司として育った幼少期、学園紛争の波にもまれた高校時代、荒れた高校の熱血教師、不登校・中退生徒のための単位制高校の立ち上げ。さらには県で一番若い教頭という立場から一転、人間不信の底知れぬ闇に陥り、居酒屋のバイトを機に再起……。なんだか、戦後の復興期以降の日本のドラマを見ているようだ。
通底しているのは、祖母の教えだという「人とのつながり」を何より大切にして、「人を信じる」こと。高校教師の道を選択したのも、結婚を考えたことが直接のきっかけではあるが、伝習館裁判の3教師の一人でもある恩師の影響が大きいという。
「やりたいことが見つかって、安心して学べる場所があれば、どんな子でもきちんと頑張れる」と力説し、一人一人に向きあい、可能性を引き出し、力を発揮できるよう支援することを自らの使命と確信する平木さん。長年の教育現場で育んだネットワークやノウハウ、教え子たちとの幅広い人脈など大きな大きな「財産」を眠らせておくのはもったいない。ビジネスパートナーの広がり、お互いがよりハッピーになれるような関係性の構築に活用できたらスゴイことだと思う。何かうまい方策はないだろうか。今度、飲みながらお話ししましょう。