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島田 昭規 苦労に裏打ちされた強さで ビジネスと心の輪を紡ぐ


島田 昭規(しまだあきのり)
ICI株式会社 取締役

●プロフィール
ライフチャート

1964年福井県生まれ。22年間、コールセンター業界に身を置き、中小企業の生産性が上がるためのコールセンターの在り方と支援方法を、多方面から提案する、中小企業経営支援のパイオニア的存在。その一環として、中小企業支援機構の構築に向けて奮闘する日々も送る。地域活性化のための支援活動にも注力し、その多彩な行動力に共感する人も多い。一般社団法人中小企業事業推進機構の立ち上げにも関わり、現在、事務局長を務める。

●ヒストリー
 

幼児期をお寺で過ごし
死の悲しみを体感する

――島田さんは福井県のご出身だそうですが、どんな少年時代を送ってこられたんですか?

「私は生まれてから、お寺さんで育ってるんですよ」。

――お寺ですか? 何かご関係が?

「母の実家が寺で、そこに預けられてたんです。だから、物心つくまで、そこが自分の家だと思っていて(笑)」。

転機はいつ、どういう形で?

「私は医者になりたかったんです。やっぱりお寺ですから、お葬式が多くて、泣いたりしている人も多いんですよね、当たり前なんでしょうけど、昨日まで笑って遊んでくれた人が、私の目の前で泣いていて、悲しげにしていて、それが見ていて辛かったんです。『なんで、みんな泣いているんだろう。泣いて欲しくないなあ』って。人が死んでしまうと、残された人はとても悲しい、そういうのを見て育っていくうちに、『誰も死なないでほしい。泣かないで欲しいなあ』と自然に思うようになって、気がついたら医者になりたいなぁと思うようになっていた。まぁ、それも大学受験に失敗して、諦めるんですけど、そこが大きな転機になったと思います」。

――受験は何度か挑戦されたんですか?

「足かけ二年かかりましたけどね(笑)。友だちと遊んだり、バイトばかりして、勉強は殆どしていなかったので、当然でしょうね。二浪することになって、母からは『独りで生きていけるように!』と厳しく言われ、この時の母の言葉が私に現実を見せるきっかけになったんでしょう、医者になる夢は諦めました。そこからはじめて、自分の進路の事を真剣に考えましたね。私は何がしたいんだろうって」。

何か見つかりましたか?

「私は、人が悲しまないように、と思って、死ぬというのが人の悲しみの極地だと思っていたから、医者を志したわけですが、医者になれるほどの頭脳も経済力もなかった。そんな現実を目の当たりにして、人を悲しませないためには『幸せな社会を創ればいい』と考えたんです。幸せな社会ってどんなものなのか、具体的なイメージがあったわけでもなくて、漠然とそう思っていただけですけど」。

  

 

ハプニングに見舞われた
青年期を乗り越えて


――時代はバブルの頃ですね。大学卒業後は、民間に就職されたんですか?

「当時はバブル景気だって意識は誰もなかったと思いますが、大学に入学する前は、将来何をするか相当悩んでいたのに、自分の欲得以外の夢も理想も考えなくなっていて、気がついたら普通の企業を選んでました。内定もらったら、遊びまくろうと思ってましたし。そうしたら、急遽自分が実家を継がなきゃいけなくなったんです」。

家を継ぐことに?

「私は農家の三男坊なので、跡継ぎ以外は家を出るのが当たり前と言われて育ちました。だから、実家に戻ることに対してはちょっと残念に思いましたが、代々続いた家を途絶えさせるわけにもいけませんから、せっかく頂いた内定を辞退して実家に戻ることにしたんです。ところが、そこでもまたいろいろありまして、結局は家を継がなくてもよくなったんです。私の人生は一体なんなんだ?と、その頃は自分の家とかを恨みましたよ(笑)」
 

熊本での農業ボランティア活動



それで、どうされましたか?
「親からは、働きもせずに家でぶらぶらされるのはみっともないと言われましてね。でも、家の都合で振り回されたという想いが強かったですから、両親と大げんかになって、勘当されて家を出されました」。

大変な青年期だったんですね。

「全て選んだのは私ですから、両親を責めるのは筋違いなのは頭の中じゃわかっているんですけどね。でも、何か言いたかった。その後、京都に戻ってからは、親のありがたみを心底感じましたね。扶養家族から外されてみて、自分自身に何の信用もないということが身に沁みて解りました。病院にも行けない、部屋も借りられない状態でしたから。なんとか探して部屋を借りることはできましたが、家賃もかかりますので、バイトばかりしていました。その時に事故起こして…」

あー…
「救急車で病院に運ばれる途中、頭を強く打って頭から出血していまして。救急車の中で、救急隊員さんから、同じ事を繰り返し何度も聞かれて、面倒くさいなと思っていたんですが、最後に『保険証は持ってますか?』って聞かれたんです。私は正直に、『持ってません』と答えた。そうしたら、救急隊員さんから『全額負担になるけど大丈夫?』とか言われて、その時初めて、全額負担という言葉が頭をよぎりまして、『なんぼ、かかんねん
!?』と頭の中が真っ白になりました」。

命があって、よかったですね。

「本当ですよ。結局、診察受けなかったんですが、健康保険証のためにも早く就職しないと、と思いましたね(笑)。必死で職探しをして、たまたま見かけたコンサルティング会社の中途入社の募集広告をみて応募して、なんとかその会社に雇ってももらえました。最初に勤めることが出来たこの会社は、『中小企業が日本を支えている。事業所の
9割以上が中小企業で、その中小企業を支援し元気にすることが我が社の使命だ』という会社で、すごく感銘をうけました。このときが24歳です」。

どんな仕事をされていたんですか?

「いろんなことをさせていただきました。私が入社した会社はコンサルティングファームでしたが、入社直後にはコンサルティングなんてできませんから、いろんな部門のいろんな方々の仕事のお手伝いをして、その方の作業効率なり生産性なりが上がるようなことをしていました」。

地道に成果を上げていったんですね。

「会社は地味な仕事をちゃんと評価してくれました。その後、事業部門の戦略立案に関わる重要な仕事もさせてもらいましたし、新しいこともチャレンジさせてもらえました。とても、やりがいのある職場でした。ただこの会社も上場の準備に入っていって、コンサルタントが350人を超えてくるようになってから、一部上場など大手企業のクライアントがどんどんと増えてきた。私は、やっぱり中小企業支援など会社を大きくしていく仕事がしたいなあと思って、4年勤めた会社を退職し、先輩たちからのお誘いもあってシンクタンクに転職しました。その会社も良い会社でしたが、妻の母と同居するため、実家がある北九州に引っ越しすることを機に、退職しました」。

「中小企業を元気に」
同じ「志」の仲間とともに


初めての九州でのお仕事は、いかがだったんですか?

「九州でお世話になった会社は、テレマーケティングの会社でした。私はテレマーケティングとかコールセンターとかの業界についてよく解りませんでしたが、マーケティングなら経験があるから、まぁ良いかなと軽い気持ちで入社しました。でも、希望職種は営業だったはずなのに、配属先がコールセンターで、話が違うんだけどと思いつつも、言われるままにコールセンターに着任。ところが、当時のコールセンターの職場環境があまり良くなくて、正直びっくりしました。『ここは野麦峠か、女工哀史か!?』と思ったくらいですが、いつの間にかセンター長に担ぎ上げられていました(笑)。それからは、センターの業務改善や制度改革、センター長を退いてからは会社本体のリストラの責任者になっていました」。

――リストラの責任者ですか?

「そうです。当時のコールセンターには、いろんな境遇の従業員さんがいて、年齢も幅広くて、しかも全て女性で、中にはシングルマザーや障がいのある方もいた。ですので、再就職先を探したり、再就職先で苦労しないようにと、いろんな研修をしたりしました。それでも、どうしても辞めていただくことになる方もいて、相当私を恨んでいたと思います。そんな中、計画通りにリストラを進めて、残り半年で完了というところまでいったのですが、親会社の急な業績悪化で追加の人員削減要請があり、最低限必要な人員の、更に半分にして欲しいと言われたんです。そこでとった苦肉の策が、別会社を一つ立ち上げて、企画・営業部門とコールセンター・管理部門にわけるというもので、なんとかこの苦境を乗り切ることが出来ました。その別会社が、今の私の会社です」。
 

仕事に没頭する若き日


 

――波乱万丈ですね。
 

「仲間を辞めさせるという仕事は、精神的にもかなりきついものでした。会社のためとは言え、辛かった。でもその反面、会社を立ち上げることで、やりたいことができるかもと思ったのも事実です。その後に私は、異業種交流勉強会を立ち上げて、中小企業支援をやり始めるのですが、たくさんの中小企業の仲間ができましたし、中小企業事業推進機構もその過程で生まれたんですよ。中小企業は『ひと・もの・かね』の経営資源が乏しい。でも、だからこそ、各々の事業者が商品や自分の強いところを持ち寄って、それぞれの顧客にあった新しいビジネスモデルをつくり、提供出来る仕組みとインフラを仲間とどうしてもつくりたかったんです。決して楽な道のりではないんですけど、とても充実していますし、やり甲斐を感じています」。

 

氏名 島田 昭規(しまだ あきのり)
会社名・団体名 ICI株式会社 代表取締役
所在地

〒810-0041 福岡市中央区大名2-12-10 第二赤坂ビル4F

TEL092-739-5331 FAX092-739-5330

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 インタビューを終えて
「島田 昭規」考

 

長谷部セールス戦略オフィス 長谷部 由香


島田さんは、愛されキャラだ。彼が声を上げると、多くの人が集まり、新しい風が起こり、笑顔が広がる。その理由を考えてみると、「誰かのために、何かのために」汗をかくことをいとわない、その人柄にあるのではないだろうか。

九州に上陸する前から、大変な経験と苦労をしている。アンラッキーなことも多かったし、理不尽なことも多かっただろう。しかし、そんな出来事をひらりとかわし、何事もなかったかのように、ただ目の前の物事に打ち込み、成果を上げていく。そんなひたむきな姿と実行力に、多くの仲間たちは魅了されてきたに違いない。しかし一方で、島田さんは特別感を放っていない。「気づいたら、そこにいる」…そんな存在感が、安心感と信頼感につながり、多くの「島田信者」を生んできたのではないだろうか。

「お宅では、どんなご主人で、どんなお父さんなんですか?」と聞くと、「どうですかね~、ダメダメですからね~」と笑う。きっと、いい夫であろうとしたり、いい父親であろうとするのではなく、自然体でそこにいるのだろう。しかし「私は守るだけですから」という一言。そして、「神社やお寺さんでお願い事をするときは必ず、『私の家族に降りかかる不幸は、全て私が引き受けますから、どうぞまわしてください』とお願いするんです」という言葉。この力強く、温かい言葉は、お寺で育ったことと無関係とは思えない。

 降車駅を降り損ねてしまったり、眼鏡を電車内に忘れて、終点門司港駅まで取りに行ったりと、奥さまを困らせていることは有名な話。ご家族への感謝の言葉が自然にでてくるところは、長年苦労された中、家族の支えが一番の力になったことは、想像に難くない。島田さんのこれからの言動から、目が離せない。

 

 

 
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