• RSS2.0
トップ  > 中小企業がパートナーとして選びたい福岡の30人  > 山田 武知 接遇・接客のプロ 「保険は愛。」を掲げて提案営業

お問い合わせ先

一般社団法人中小企業事業推進機構
〒810-0041
福岡市中央区大名2-12-10 第2赤坂ビル
TEL: 092-739-5357
FAX: 092-739-5330
モバイルサイトはこちらから

山田 武知 接遇・接客のプロ 「保険は愛。」を掲げて提案営業


山田 武知 (やまだ たけとも)
アスウェル合同会社

ライフチャート
●プロフィール
1970年京都市生まれ。9歳で母と死に別れ、鹿児島県頴娃町(現・南九州市)の祖父母の元で育ち、県立指宿高校を経て鹿児島大学法文学部入学。学生の傍らショットバーを経営し、7年かかって卒業。新聞社の販売管理、風俗店経営などの後、保険業界へ。西日本で有数の代理店で「保険のイロハ」をたたき込まれ、2016年春独立。「保険は愛」をモットーに、一人ひとりのライフスタイルに応じた「オーダーメイド」保険を提案。熱狂的な阪神ファンで5人の子どもたちにも「六甲おろし」を教え込んでいる。
●ヒストリー
 

「男たるもの人前で涙を見せず」
9歳で死に別れた母の教えを守り抜く

――福岡では珍しい熱狂的な阪神ファンですね。

「京都生まれで、義理の父が大のトラファン。週末になると甲子園に連れて行ってくれたんです。その頃の阪神は弱くて甲子園もガラガラ。『ワーッ』と大きな声で応援しないとバレちゃう。親父から『大きな声出せ!』と頭ポカッと殴られ、一生懸命応援すると、隣りの席のおじさんが『ボン、お利口さんやな』と焼きそばを分けてくれたり。父の顔を知らずに育ったから、初めてぶん殴られたとき『これがお父さんか!』と、うれしくてうれしくて」

――お母さんの再婚にも抵抗はなかったんですね。

「はい、小学校1年の時でした。義父は若い頃ヤンチャやってたらしいんですが、厳しくて、でも優しい人。気弱で泣き虫なボクを鍛えようとしてくれたんです」


――気弱で泣き虫だったなんて想像もつきませんが。

「ホント、泣き虫だったんですよ。ところが母は、ケンカして泣いて帰ってきても『よしよし』と慰めてくれはしない。靴を投げつけて『男の子は人前で決して泣いてはいけない』『ケンカに勝ってこい』と。母ひとり子ひとりだったから、意識して父親の役割をしていたのでしょう」

――甘えさせてくれなかったんですね。

「母親と一緒の布団に寝た記憶がないんですよ。だけど、あるとき急に『一緒に寝よう』と言ってくれて。その一週間後に亡くなったんです。死期をさとったのでしょうか。もともと心臓弁膜症で、私を産んだ時も数分間、心臓が止まっていたくらいでしたが、死因は脳出血。私が9歳の時のことです」


――9歳でお母様に先立たれるのは……たまらないですね。

「このとき『男子たるもの人前で泣いてはいけない』とスイッチが入ったんです。泣き虫の私が母の葬式でも一粒の涙も流さず、それ以来、人前で泣いたことはありません。その後、母方の祖父母に引き取られて鹿児島へ。今の南九州市頴娃町です。『父ちゃんについて行く』と言ったのですが、やはり血がつながっていませんからね」

水商売にのめり込んだ学生時代
接遇の基礎をたたき込まれる

――京都から鹿児島へ。生活がガラリと変わったでしょうね。

「男の子はみんな丸刈りなのにビックリ。関西だったら、何か悪いことしたおっちゃんの格好ですよ。『みんな悪さしたんやろうか』とおっかなかったですねぇ。だけど何が大変かと言えばコトバ。まったく何言ってるかわかりません。こちらの関西弁には『漫才師が来た』とからかわれ、いじめられ。ばあちゃんから『いじめられたくなかったら、勉強とかけっこで一番になればいい』と言われて結構勉強しました。100点取って、運動会でもちょっとズルしながらトップでゴール。そのうち、いじめられっ子からいじめっ子、ガキ大将になっていました(笑)」

――進路についてはどう考えられたのですか。

「地元ではそこそこの進学校で、陸上にあけくれながら成績は文系でトップ。学校から期待されていたんですよね。つきあっていた彼女と別れさせられて、がんじがらめの監視下に。それで高3の夏、駆け落ちしちゃいました。陸上部の先輩の家を渡り歩いて、一週間後には連れ戻され、3週間の停学をくらいましたが、クラスでは一躍ヒーロー扱いです」

――青春ですねぇ~(笑)。

「そんなことしているものだから、余裕で国立に受かるはずが不合格。授業料免除の特待生として代ゼミの福岡校で浪人生活を始めたのですが、鹿児島の田舎から博多に出てくると楽しくて、楽しくて。夜の点呼の後に雨樋を伝って寮を抜け出してはマリアクラブに入り浸り。勉強なんてしないですよね。九大くらい軽く行けるとたかをくくっていたのが、地元・鹿児島大学に。じいちゃんたちに迷惑かけっぱなしで、生活費くらいは自分で稼ごうとバイトを始めて水商売にどっふり浸かってしまいました」

――水が合ったのでしょうか。

「最初に入った店が、鹿児島でも有名なラウンジ。言葉遣いをはじめ接客にものすごく厳しく、徹底的にしごかれました。バーテンダーってカッコイイなあと思っていたところ、銀座の老舗バー池田で修業した人が鹿児島で店を開くと聞いて押しかけて弟子入り。しばらく修業して、大学6年生のときに天文館にショットバーを開きました」

――けれど、水商売を続けることはしなかった。

「途中で、大学を辞めて店に集中しようかとも思ったんですが、師匠の店を踏襲してハイレベルに設定したので経営はとんとん。経営上はなかなか難しく、当時つきあっていた彼女から見放されかけたんですよ。看護師だったので『いつまでもフラフラしてるなら、鹿児島の病院を辞めて福岡に出ていく』と。あわてて卒業、就職。何も考えず片っ端から受けたら、たまたま大手新聞社に受かって福岡配属となりました。その彼女とはほどなく別れてしまいましたが

 

宮仕えは向かず、大手紙を退職
保険業界で営業力を発揮

――大手新聞社なら収入もよく、生活も安定しそうですが。

「たまたま受かったけれど、周囲はエリートばかりでしょう。出世はとても無理と思ったんです。それに既に自分で店を経営していたから、会社勤めで上司から指図されること自体が面白くない。簡単にできそうな商売のハウツー本を読みあさって、始めたのは風俗関係。水商売の経験を生かして接客は厳しく、他店にはないシステムを導入。風俗の革命児と言われたものです」

――そこから、今度は保険業界に。きっかけは何だったのでしょう。

「妻の父親がガンで倒れ、営んでいた損保の代理店を引き継いでくれないかという話になったんです。まだ結婚前のことでしたが。何とかやれるんじゃないかと思って引き受けたものの、年収はがた落ち。勉強して、必要な資格は取ったものの経験ゼロで、ペーパードライバーが大型バスを運転するようなものですから、うまくいくはずありません。保険会社の方から合併話を持ちかけられました。
 先方は、西日本一の規模の代理店。最初は軽くあしらわれていたのが悔しくて、独自の戦略を立てながら特定分野で福岡一、あるいは九州でダントツの営業実績を上げることで認めてもらい、2016年の春、独立を果たしました」

――営業力はさすがですね。

「ベースは、学生の頃に水商売で学んだ接客です。バーテンダーは、初めての客に応対するとき、30秒でその人の趣味とか、何を食べてきたかなどを感じとらないといけない、と言われました。客に対して『何を飲みたいですか』と聞くのは野暮だと。一発で顔と名前を覚えるのはもちろん、人を観察して見抜く能力は鍛えられましたね。
 ただ、水商売も風俗も男性は裏方。そんなに感謝されることってなかったんです。ところが、義父から引き継いで初めて事故処理を対応させていただいたとき、お客さまから手を取って『ありがとう』と言われ、こちらの方がビックリ。人から喜ばれ、人を幸せにしているって実感できる仕事です。流れ流れて行き着いた仕事ですが、いい巡り合わせだったと感謝しています」

 

 

氏名 山田 武知(やまだ たけとも)
会社名・団体名 アスウェル合同会社
所在地

〒812-0011 福岡市博多区博多駅前4-36-29-4F
TEL092-452-7045 FAX092-452-7046

関連ホームページ http://hoken-aswell.com
 
 
 
本人に直接連絡したい

直接ご本人と連絡を取りたい方は下記からお問い合わせください。
 
 


編集部経由で紹介希望の方
 
編集部経由でご紹介をご希望の方は、下記からお問い合わせください
 
 
 

 インタビューを終えて
「山田 武知」考

 

吉永剛事務所 吉永 剛

 山田さんは、人たらしである。人なつっこい目でスッと人の懐に入り込み、いつしか相手の心をわしづかみにしている。保険業界のトップセールスならではのスキルと思っていたが、実は20歳そこそこの学生時代、バーテンダーのアルバイトを通じて徹底的にたたき込まれた接遇術だという。
 トレードマークのヒゲも戦略のひとつ。山田さん曰く「保険業界では珍しい、ちょっとアヤシイ風貌」独特の雰囲気を醸し出している。「人は危険なものは本能的に避けるが、アヤシイものには惹かれがち」というのが山田理論。「こういう怪しげな風貌の人間がきちんと話すと、意外性も含めて強く印象づけられ、かえって信頼されるもの」というのだ。保険・金融とは無縁の世界から飛び込み、数年のうちに業界のベテランたちをしのぐ業績を上げるまでになったのも、このような変化球を駆使した戦いあってのことなのだ。
 町工場で働きながら女手ひとつで育ててくれた母にも9歳の時に死に別れた山田さん。小さい頃は、いつもおなかをすかせていて、鹿児島の祖父母のもとでは「炊飯ジャーをあけたらご飯が入っていて、食べ物に困らない」ことがなによりうれしかったという苦労人である。
 貧しくとも「一人っ子で、母の愛情を独占した濃密な9年間」を経て「死ぬまで、一度も怒られることのなかった優しいばあさん」のもと、反抗期もなかった。そんな自分を「母を失い、ばあさんにまで捨てられることへの恐怖、嫌われたくない」という深層心理が働いていたのではないかと振り返る。
 5人の子どもに豊かな愛情を降り注ぐ強い父親。「保険は愛」をキャッチフレーズに、家族と仲間といつもワイワイ楽しみ、人生を謳歌。そんな印象の強い山田さんだが、実は一人が好きで、ぶっきらぼうなおやじがやっている居酒屋でひとり飲むのが大好きなのだという。そんなもうひとつの山田さんの素顔を見てみたいと思うけれど、大切なひとりの時間、じゃましてはいけないようだ。

 
書籍購入