分藤 宗徳 (ぶんどう むねのり)
有限会社メディア・ジャパン
――どんなお子さんでしたか。
「ケガの多い子でした。3歳の時に土間のやかんをひっくり返して体の三分の一くらいヤケド。障害が残ると言われたけれど、次の日から元気に走り回っていました。5歳の時には土管から落ちて頭を割って5針縫うし、野球で指、あご、鼻を骨折。靱帯も切りました。小学生の時は半ズボンをはいていたので、ケロイド状になったヤケドの跡をさらし、変な目で見られたものですが、『負けないぞ!』と意識していましたね。大きな怪我の時は、なぜか祖母と一緒で、ずっと気にしていました。でも祖母のおかげで強くなれたんだと思います」
――負けん気は強そうですね。
「親父譲りで。親父もお袋も体育会系。スポーツの世界で食っていくことができなかった自分たちの夢を子どもに託したんでしょう。男兄弟4人、全員野球をやってました。ボクは長男ですが、中学はわざわざ野球の強いところに引っ越したくらいです」
――それは本格的ですね。
「朝から晩まで野球漬けの生活。恋愛ひとつなく、脳みそすべてが野球でした。四男の弟はノンプロに入りましたが、ボクは高校の時点でプロ野球選手は無理だと悟り、甲子園予選で野球人生は終了。先生から『人生なめてんのか。野球ばかりで大学なんて入れねえぞ』と言われたけれど、運が強いんですよ。共通一次のマークシートで、苦手な国語と英語のわからない問題、鉛筆サイコロで解答したのが見事に当たり、琉球大に入学できました」
――運も実力とは言うモノの、見事な強運。学生生活はいかがでしたか。
「野球漬けの反動で、軟派になろうと思い、国際通りで毎日ナンパしていました。1日100人の女性に声かけてお茶やディスコに誘う。ほとんど断られるけど、数打ちゃあ当たると平気になりました。
――いい営業の訓練になりましたね。進路はどう考えたのですか。
「すぐに就職したくなくて、金をためて大学院に行こうと思ったんです。だけど長男だから弟たちの手本にならなければ、と進学を諦めてバイトで貯めた金で旅に出ました。遺跡が好きだったので中国のウルムチ、トルファン、敦煌とバックパッカー2カ月の一人旅。大陸の人間に、ものすごいパワーを感じましたね。生きることに貪欲というか。世界って広いんだ。一回きりの人生『好きなことをやって生きよう!』と決意。帰国して人生設計を立てました。まず大手企業に入って社会の仕組みを勉強。25歳までに結婚、30歳までに家を建てて35歳までに独立。すべて数年前倒しで実現しました」
――就職先の選択は?
「バブル末期でしたから研究室の推薦で即、大手食品メーカーに内定。最初にいい会社とご縁があって良かったと、今でも思っています。辞めた人に対しても温かくて。2年しか在職していないけれど、先輩や同僚たちと交流は続いています」
――IT業界に転職したのも独立を見据えてのことですか
「食品業界での独立は難しいし、好きなことで、かつ時代の流れを見るならばITしかない、と。学生時代からパソコン通信で世界とつながることにワクワクしていました。そこにインターネットの出現。これは相当、世の中変わるぞと確信したんです。ネット関連の部署に配属され、マイクロソフトに出向するなど、ここでもいい経験をさせてもらいました」
――独立にあたっては、相当苦労されたようですね
「メーカー側とユーザー側の中間的立場でアドバイスできる存在の必要性に目を付けて、双方にアドバイスできるITのコンサルタントを目指したんです。月に2万円くらいの低額でコンサル契約結ばせてくださいと持ちかけて、10社と締結すれば、当面20万円の売り上げが確保できるという計算で。ところが、営業経費は足りず、あっという間に借金が膨らんでいきました」
――失敗の原因は何だと思われますか。
「独立するまでの計画は立てていたけれど、独立してからの計画が甘かった。よく言うじゃないですか。結婚はゴールじゃなくてスタートだ、と。あれと同じですね。それと大きなポイントは、サラリーマン感覚の延長でやっていたこと。会社の看板でならどれだけでも大きく営業できるけれど、個人の看板の営業では自信が持てない。サラリーマンとして1千万円の見積もりはつくれるのですが、個人事業主になると桁が違ってくる。業務と事業の感覚の違い。頭が切り替わっていなかったんです。
経営者としての思考パターンを身につけなければいけない。そのためには、経営者と知り合い、話を聞くしかない。そう思ってJCなど経営者の団体に入りました。『借金もあるのに、なんで会費払ってボランティアに行くの。バカじゃない?』と嫁さんからあきれられましたが。確かに、サラ金に1千万円の借金があり、家のローンもあるのに、わけのわからないことばかりやっている。普通なら離縁状たたきつけられるところ。うちの奥様はスバラシイと思いますよ(笑)」
――事業立て直しのきっかけは?
「当時、注目され始めたサプリメント事業です。栄養化学の専攻ですからある程度の知識はあったし、時代的にいけると思って始めたところ、これが当たって成功。ここの学びは、人間って、二つ同時に集中はできないもの。頭の中の借金を放置していては前向きに仕事ができない。借金を意識から取り除き、稼ぐ方に思考を切り換える必要がある。そこで、自分からサラ金に連絡して『このままでは払えません。ボクが死んでも得はないですよ。借金返せませんよ。生かしておいた方がいいでしょ』と交渉。返済方式を交渉して、相手にのませました。めっちゃ、いい経験でしたね」
――人生設計通りかと思いきや、波瀾万丈ですね。
「変化を楽しめるマインドが大切だと思うんですよ。いいことも悪いことも変化。人生、振り幅があるから楽しいんです。もともと両親とも公務員で、失敗することなく無難に、順調に生きていくライフスタイルを追っていたはずなんですけどね。長男として弟たちの見本にならなければいけない、失敗はできないという意識はどこに行ったんでしょうか(笑)」
――講演が1000回以上。わかりやすくてためになると好評です。
「『あんなに無口だったうちの息子が』と、親は今でも信じられないようです。硬派で無口な野球少年で、人前でしゃべるどころか『ウルサイ!』とすごんで、にらみを効かせるタイプでしたから。
――人って変わるものですね。
「あの頃は弱みを見せられなかったけれど、『ヘルプ ミー!』と言った方が楽だと悟ったんです。格好良く仕事しなくても、一生懸命やっていたら『こんな仕事あるけど、どう?』と周りが助けてくれる。それでも、楽しんでいる風にしか見えてないかもですが(笑) 僕が得意なことは、ビジネスモデルなど仕組みを考えることなんです。人を稼がせてこそ、なんぼですよ。人に稼いでもらって喜んでもらい、自分も稼ぐ。そうして多くの人が幸せになる。稼いでもらえる人をたくさん作るのが今のボクのテーマです。今後もいろいろと仕掛けますよ(笑)」
氏名 | 分藤 宗徳(ぶんどう むねのり) |
会社名・団体名 | 有限会社メディア・ジャパン |
所在地 |
〒819-1138 福岡市県糸島市前原駅南2-9-22-808 |
関連ホームページ | bunnchan.com |
インタビューを終えて
「分藤 宗徳」考
株式会社カムラック 賀村 研
自称「ほら吹きぶんちゃん」。「ずぼらで能天気。何とかなるし、何とかなってきた、何とかしちゃう」と言う通りに、借金地獄に陥りながらも、見事に這い上がり、今を築いている。もちろん、「器用」というだけではない、幅広い知識、高いスキルと経験、そして時代の流れに敏感なアンテナなど分藤さんの底知れぬ「力」あってのことだろう。下手にマネをしても、ヤケドしてしまうだけかもしれない。
それでも、分藤さんを見ていると、「クヨクヨ考え込まずに、頑張ってさえいればきっと道は開ける。やっていける!」と思えてくるから不思議だ。分藤さんにいろんなところから講演依頼の声がかかり、多方面からビジネスパートナーの申し出が舞い込むのも、みな、彼と共に歩むことで、自分の力が倍加されることを知っているからだろう。
「好きな事をして生きる」。みな、そうありたいと思いながら、「世の中そんなに甘くない」と、何らかの理由を探しては、人のせいにしたり社会のせいにしたりして自らを慰めがちだ。しかし、それは一歩踏み出せない自分への言い訳に過ぎない。分藤さんは、講演や表現、なにより自らの生き方を通じて、そう気づかせてくれる。
彼のすごさは、自らが軽やかに道を切り開いていくだけでない。周りの人たちに、自分自身の中にある潜在的な力、魅力の存在に気づかせてくれることにあると思う。器用で何でもこなす分藤さんが今、あえて自分は一歩ひいた位置にいて、「人に稼がせる」ことを意識しているという。彼の軽やかさはきっと多くの人に新たな発見を促し、多くのハッピーを生み出してくれることだろう。これからの動きを想像するだけでワクワクしてくる。
型にはまらない男、分藤宗徳。そんな彼を温かく見守るご家族に、最大の敬意を表したい。