賀村 研 (かむら けん)
株式会社カムラック
――いつも楽しそうにお仕事されてますよね。
「よく言われますが、実は短気なんですよ(笑)。何事もすぐに決めないと、気が済まない。」
――それは、会社の代表としてはとても重要な要素ですよね。
「子どものころは、競馬の騎手になるのが夢でした。中1の頃から乗馬クラブに住み込んで、朝から晩まで馬の世話。夜になってやっと指導を受ける、そんな毎日を送っていました。でも、競馬学校の試験に落ちたので、滑り止めの高校に入学しましたが、乗馬は続けていたので、国体にも何度か出場。その結果、日大からスカウトされ、セレクションで合格するという幸運に恵まれました。学校にはほとんど行きませんでしたね。毎日馬と接していました。だから勉強しなかったし、当然、就活も」
――大学卒業後は、どんなお仕事を?
「ゼネコンでした。世の中はバブルで、東京ラブストーリーみたいなことがありそうなご時世(笑)。だから、すごいショックだったんです」
――何がですか?
「九州支店配属が(笑)」
――(笑)九州は初だったんですね。
「東京から離れるということは、田舎に行ってしまうというイメージがありましたからね。でも、配属先がアットホームな会社で、皆さんに可愛がっていただきました。上司は九州のおやじや兄貴みたいだったし。しかしバブルが崩壊し、建設業界は厳しい時代に。私も将来のこと考えざるを得なくなりました。」
――そこで、IT業界に転身された。
「世界的にはWindowsやMac、国内ではソフトバンクやアスキーなどのトップが注目されていた頃。会社が赤字決算になり、このまま九州にいてもダメだ!と。『東京に行く!東京に行きたい! 一流の人の横にいて、同じ環境で、同じ空気を吸いたい』と無性に思ったんです。
26歳でゼネコンを退職し、上京。あるITベンチャーのドアを叩いた。その時の記憶はあまりないんですけど、勢いで突っ走って、なんとか1社に入社することができました。」
――初めてのIT業界は、どんな世界だったんでしょう。
「人の温かさがあった九州の会社とは正反対。こんな言い方はよくないですが、人を蹴落とすのが当たり前。血が通っていないのではないかと感じる世界でした。自分の成績になるなら、土下座だって、裏切りだって、会社の傭兵のように何でもしましたよ。
『自分の給料以上は稼いで来い! 無理なら辞めろ!』という罵声を浴びせられる毎日が続くと、当然、続かない人が出てきます。先輩たちはどんどん辞めていく。残った社員は、少数精鋭で必死に頑張るしかなくなりました。
どん底の世界が劇的に変わったのは、自社商品が大当たりしたから。私も1000万プレイヤーになり、まさにITバブル。私は天狗になりました。『この会社は、自分のおかげで回っている』。そんな風に考える人間になっていったんです。」
――賀村さんにも、そんな時期があったんですね。大活躍の中、九州に行く決断をしたのは、どうしてなんですか?
「長男が4歳の時でした。妻が、妻の実家がある福岡で落ち着いて子育てをしたい、と」
――福岡で改めて転職することに不安はなかったんですか?
「それが、全然なかった。調子に乗っていたんです。仕事なんて、いくらでもあると。」
――実際は?
「なかった。本当に全然なかった。なめてましたね。焦りましたよ。」
――原因はなんだったんでしょうか。
「東京での私の経験は、九州では必要じゃなかったんです。私は大企業相手に提案営業を行ってきたんですが、九州には中小企業が多い。だから、どうしたらシステムが作り上げられるかの、人や情報などのネットワークを持っている営業の方が、顧客の役に立つ。そのことに気づかず、半年ほど仕事を見つけられませんでした」
――転機になったのは?
「ある社長との出会いでした。『世の中に必要とされる会社を作ろう』と。技術者たちが経験を生かせ、高齢になってもいきいきと働ける場所。女性技術者たちが、在宅などでも活躍でき、埋もれている力を活かせる場所を作ろうと。感銘を受けた私は、社長と共に頑張ろうと思いました。でも、社長が癌になり、私との新規事業を続けられなくなった。私は、また転職することになったんです」
――辛い選択でしたね。
「加えてびっくりしたのは、お世話になった社長が亡くなった時、奥さんが転職先に来られたこと。『賀村君を戻して欲しい。社長の遺言だから』と。これには、どうしようかと。悩んだ挙句、結局転職先を1年で辞め、社長に就任された奥さんの元、先代社長と立ち上げようとした新規事業を進めました。しかし、結局はうまくいかなかった。急に舵取りを亡くした経営陣は、新規事業に積極的ではなかったんです。それもわかります。しかたないですよね。でも私はどうしても、先代社長の考えが正しいことを証明したかった。だから、『自分が社長の想いを実践してみます』と言って独立しました。
――その決断が、今につながるんですね。
「私が立ち上げた事業は、障がい者の就労継続支援A型事業所ですが、社会貢献のために作ったわけではありません。自分がやりたかった事業を進めてくれているのが、障害のあるスタッフたちだというだけで、彼らがいないと困る。本当に大切なパートナーなんです。だって、私はシステムの開発、できませんから。私は彼らに食べさせてもらっているんです」
――社長にも、恩返しができましたね
「ちょうど今年のカムラックの売り上げと、システム開発グループ会社else ifの売り上げを合わせると、前職と同規模の組織になりました。今ではお客さまから、グループご指名でお仕事の話をいただくことも増え、ありがたいなと思っています。
本当に社長に見せたかった。器は変わりましたけど、喜んでくれてると思いますから。まだまだやりたいこと、やらなきゃいけないことはたくさんありますが、まずはこの事業が、世の中の一つのロールモデルになればと願っています。
今まで、たくさんのことを学んできました。挫折も、自惚れも、情けなさも、すべてが今の自分を作ってくれたと思いますが、一番のカギになったのは『人』。多くの人とのかかわりがあったからこそ、大切なことを知り、ピンチも乗り越えることができたのだと思っています。福岡を、地域を元気にするためにも、たくさんの仲間たちとともに、楽しみながら、頑張っていきたいですね。」
氏名 | 賀村 研(かむら けん) |
会社名・団体名 | 株式会社カムラック |
所在地 |
〜Come Luck 県庁前事業所 ホップ・ステップ・カムラック〜 |
関連ホームページ | http://www.comeluck.jp/ |
インタビューを終えて
「賀村 研」考
ケイ・パッケージ㈱ 梅野 慶司
賀村さんと会うと、その思いの強さに驚かされる。障がい者スタッフに対する信頼の高さ、スタッフのやりがいを守る経営者としての責任。非常に重いテーマでありながら、それらを楽しそうに、ワクワクしながら話す様子を見ていると、賀村さんのエネルギーは「逆境」なのかもしれないと思う。よく「逆境を乗り越えてきた人間は、優しい」と言う。もちろん、挫折のない経営者は存在しないだろう。しかし、辛さから逃げない強さ、「やるしかない」の信念の強さは、人一倍強かったのではないだろうか。そうでなければ、朝から晩まで馬の世話をしても弱音を吐かなかった中学時代の日々は、説明がつかないだろう。
「障がい者雇用って、素晴らしい事業ですよね」と話すと、少し困ったような表情をする。「社会貢献が目的ではないです。結果的にそうなっているだけで。だって、僕は営業するだけだし、働きやすいように環境を整えるだけ。大切なパートナーで仲間ですからね。彼らは僕の自慢。会社の話をすることは、僕の自慢話なので、とても気持ちいいんですよ」
「人馬一体」という言葉がある。人も馬も、触れ合うからこそ、心が通じる。人間関係も同じで、賀村さんを支えてきたものは、周囲との繋がり=言葉を超えたコミュニケーション。賀村さんはフィギュアやアイドル、ゲームが好きだそうだが、それらをコミュニケーションツールのひとつとして考えると、そのツールがどう進化し、賀村さんの戦略として光を放つのか、目が離せない。これからのワクワクが楽しみだ。