高森 啓二 (たかもり けいじ)
株式会社else if
――高森さんは、エンジニア一筋なんですよね。ずっと福岡ですか?
「僕は大分出身です。23歳までは、ずっと大分の実家に住んでました」
――どんな少年時代を?
「サッカー少年でした。ちょうど『キャプテン翼』の世代で、小学校3年生から始めて、社会人になってもやってたくらいサッカー大好きです。最近はできてませんけどね」
――活発だったんですね。
「目立ちたがり屋だったように思いますね。サッカーのポジションもフォワードだったし、結構目立つところにいたみたいです。でも、決してリーダーシップを取るタイプではなくて、二番目にいる面白いやつ。リーダーをサポートする役が、自分には合っていると思います」
――ご家族の中では?
「親が共働きで、帰りも遅かったんで、『自分たちでやりなさい』といつも言われていました。自分たちというのは、4つ上の兄とのこと。二人で協力して、ごはん作ったり、片づけたりしてましたね。遊ぶのも一緒だったし、仲良かったと思います」
――自立されていたんですね。
「でも、勉強は好きじゃなくて。夢はサッカー選手だったんですが、サッカーでは食べて行けそうにないなと思った時、ちょうど、新しい県立高校ができたんですよ。情報科学高等学校。僕は新しもの好きだし、マニアックなものにも惹かれるので、これはいいなと思い、進学。一期生だから、先輩もいないし、伸び伸びとした高校生活を送りました。サッカーの練習も上下関係ないし、玉拾いも自分たちがやって、楽しかったですね」
――高校卒業後の進路は、どんな選択を?
「僕は進学したかったんですよね、進学コースにもいましたし。でも、親が許さなかったんです、大分から出ないでくれと。ちょうどその頃、兄貴が東京に出ていて、弟の僕までいなくなるのは寂しかったんでしょうね。それで、大分の地元にあるソフトハウスに高卒で入社しました。バブルがはじける前だったので、就職できてよかったなと、あとで思いましたね」
――初めてのお仕事は?
「10人くらいの小さなソフトハウスで、社長の方針で、10人以上は社員を増やさないという会社でした。だから、僕は久しぶりの採用だったみたいで、上司がかなり年上でした(笑)。もちろん、学校で勉強したことは大して役に立たず、『丁稚奉公』みたいな毎日。でも、そのあと、情報系の専門学校を卒業した人が入社したんですが、僕も2年間でしっかり学べて、実務も身についていたんでしょう、専門学校卒の社員以上に仕事ができたので、嬉しかったですね」
――大分を離れたきっかけは?
「大阪の会社に出向していた時期がありまして、その出向先の会社へ転職したんです。いつかは大分から出たいなと思っていたし、ちょうど兄貴が東京から戻ってきたこともあり、今度は僕が大阪へ。大阪には、意外に大分県人が多くて、なんとなく安心感もありましたね」
――とはいえ、大都会での新たな仕事。どんな変化がありましたか?
「とにかく、大阪は元気で勢いがある。僕もまだ20代前半だし、仕事もまだまだ。モノづくりを一生懸命している時期で、刺激だらけの毎日でした。大分では1~2名でやっていたプロジェクトに関わることが多かったけど、大阪では100名体制の大型プロジェクトに参加。大分では、一つの言語しか使わなかったのに、大阪では多言語。プロジェクトは、短くても1か月単位、長い時は半年くらいのスパンになり、顧客も変わっていくので、ついていくことに必死で。でも、本当に鍛えられましたし、勉強になりましたね」
――充実されてたんですね。
「大阪には23~29歳までの6年間いまして、その後は福岡へ。その会社が、福岡営業所を立ち上げることになって、真っ先に手を上げたんです。24歳で結婚もしましたし、九州に戻るいいチャンスだとも思いましたので。福岡に戻ったのは、30歳でした」
――九州に戻ったとはいえ、福岡は初めてなんですよね。
「「そうなんです。僕は福岡の地の人ではないし、パイプもないので、本当に苦労しました。というのも、30歳で新しい福岡営業所の所長になったから。最年少責任者として抜擢されたので、営業も現場も管理も数字も、全部見なきゃいけなくて、とにかく必死でした。
特にプロジェクトを組む際、エンジニアの数が必要なので、いろんな会社に『エンジニアを貸してください』とお願いする必要があったんですね。取引先とか、外注先とか、たくさんあれば安心ですが、地元企業とのつながりは十分ではなかったので、イチから飛び込み営業。ご挨拶しながら、エンジニアのお願いもして、という状況で。上司から『若いから大丈夫、思い切りやろう』とか、勝手なこと言われましたけどね(笑)」」
――その後、順調に進んだんですか?
「これがリーマンショックで、休みもない日々になりました。でも会社は好きだったし、責任もあったし、何とかしたいと。その頃本社はM&Aしながら会社を大きくしていて、外から入ってきた文化の違う上司も増えていたんですね。それで、福岡の問題は組織全体の問題でもあるなと思い、上司に福岡まで足を運んでもらって、食事をしながらじっくり話をしたり、TV会議やスカイプを使って、顔を突き合わせる時間をできるだけ持つようにしたんです。
そのおかげで少しずつ状況が改善されて、福岡にはMAX40人の社員と、協力会社パートナーが20人の60人部隊が組めるようになりました。でもその後、リーマンショックを引きずっていた福岡での仕事はなかなか増えず、社員の半分の20人を東京に出向させるなどの対応をせざるを得なくなりました」
――障がい者就労支援A型事業所を展開するカムラックさんと出合ったのは、その頃。
「前の会社に在職中、賀村さんにはお会いしていました。実は妻が障がい者就労支援B型事業所で働いていまして、さらに母親が元精神科の看護師ということもあり、身近に障がいを持った方と仕事をする人がいて、接点がありました。だから、『ITで何かできないか』とはずっと考えていたんです。そこで、会社を辞めて独立し、カムラックのグループ会社としてシステム開発会社を作ることで、連携していこうという決断をしました。2015年にelse ifを設立。1期目は苦戦しましたが、地道に種まきをしていた結果、ようやく芽が出てきた感じです」
――理想の形が、進み始めましたね。
「現在、メンバーは7名。東京在住メンバーが1名いて、6月には大阪オフィス開設、今年中には東京オフィスを作ります。僕たちの仕事は、オペレーションする人の気持ちが大事。マスターベーションにならないように、使う人の立場に立ち、使いやすく、長く使えるシステムを提案したい。もちろん、組織内は働きやすく、ストレスなくがモットー。カムラックと手を携えて、福岡を元気にしていきますよ!」
氏名 | 高森 啓二(たかもり けいじ) |
会社名・団体名 | 株式会社else if |
所在地 |
〒812-0044 福岡市博多区千代4-1-33 西鉄千代県庁口ビル3F |
関連ホームページ | http://elseif.jp |
インタビューを終えて
「高森 啓二」考
あどべじ 吉田 聡
18歳からエンジニアを志し、現在44歳。26年間エンジニア一筋で走ってきた高森さんは、エンジニアが抱える悩みとストレスを熟知している。何よりも、自らが経験しているからだ。だからこそ、高森さんが目指すのは「エンジニアが楽しく仕事ができる」会社。心の病を抱えているエンジニアは多いと言われているが、「一生懸命、まじめに仕事をする人ばかり」だと高森さん。一生懸命過ぎて、真面目すぎて、抱えられなくなった責任感を、みんなでシェアし、支え合いながら、いいものを作り上げていく。そして、笑顔で、長く働くことができる。そんな環境が、else ifにはあるのだ。
家庭では、奥さまと二人暮らし。「子どもみたいで、家のことは何もしない」と話すが、そんな高森さんを応援する存在であることは言うまでもない。また「大分には帰ってますか?」と聞くと、「先日、親を野球観戦に連れていきましたよ」と笑う。子どもの頃から変わらない優しさは、今の仕事にもつながっている。そう、優しくなければ、このビジネスの発想は生まれないのだ。
自分のことを「調子のいいヤツ」だと評する高森さんの根底には、周囲への思いやりや、相手の気持ちに寄り添う温かさがある。福岡を元気にするニュービジネス。今後の広がりが、ますます楽しみだ。