河津 祐二 (かわづ ゆうじ)
九州経営リスクマネジメント協会
――資金調達コンサルタントとして大忙しの河津さんですが、ご出身は福岡ですか?
「はい、福岡市の平尾です。両親は商店街で履物屋を営んでいまして、私は5人兄弟の次男です。父は昔、日田で下駄を作って博多に売りに来ていたらしいんですが、そのうち引っ越してきて、福岡で店を。祖父母に子ども5人の9人家族だったので、生活は楽じゃなかったと思います」
――どんな少年だったんですか?
「優しくて、おとなしくて、運動が苦手で。特に泳げなかったから、大きなコンプレックスを持っていましたね。体育は本当に嫌いでしたが、唯一、球技だけが好きで、野球とか卓球とかは少しだけやってました。全体的には、あまり積極的なタイプではありませんでしたね」
――中学生の頃のチャートが、グンと上に上がっていますね。
「人生で一番絶好調だったのは、中学校の頃なんです。何が良かったかって、学校にプールがなかったこと(笑)。体育の授業で泳がなくてよかったし、野球部に入ってしごかれたお陰で超鈍足が治って、クラス対抗のリレーの選手にも選ばれたし、運動が出来るようになってコンプレックスが解消。勉強への意欲が向上して、2年生になってからは、成績はずっと、ほぼクラスで1番でした。野球部を辞めてからは、仲間とサッカー部を作って、初代キャプテンに選ばれたり、学級委員長とか生徒会役員とかもしていて、かなり積極性が上がっていた頃だと思いますね」
――高校時代は、いかがでしたか?
「久留米付設高校にも受かったのですが、地元の筑紫丘高校に進学しました。私立はやっぱりお金がかかりますし、親に経済的な負担をかけたくなかった。小学生の頃からずっと店を手伝っていたので、その歳になると、商売って大変で、『もう少し、お客さんが来てくれたらね…』という母の言葉もよく耳にしていましたからね。お客様ってありがたいなということが分かったのもこの頃です。筑紫丘に入ったのは良かったんですが、この高校にはプールがあったから、水泳の授業の時はさぼりたくて、仕方がなかった(笑)。高校では、少しだけサッカー部にいた後は新聞部に所属。文系教科が得意だったので、この頃から将来は、弁護士か新聞記者になりたいと考えるようになりました」
――大学は東京を目指したんですね。
「クラスの半分くらいの友だちが憧れの東京にある大学を目指していましたので、自分もと。私立は親の負担が大きいから国公立と思い、東京大学を二度狙いましたが、何れも二次試験で不合格。結局一浪して早稲田大学法学部に進学しました。入学金は親が何とか工面してくれました。東京では生活費を抑えるため『福岡県男子学生寮』に入って、奨学金とアルバイトでなんとかやりくりしましたね」
――アルバイトは、どんなものを?
「家庭教師とガードマンの掛け持ち。大井競馬場のパドックや駐車場の警備とか。あと、夏休みのアルバイトで、デパートの和装売り場で売り子をやった時に、お客さんへのセールスの仕方を褒められたのは、少し嬉しかった思い出ですね」
――卒業後の就職先は、どのように考えていらっしゃったんですか?
「弁護士や新聞記者は早々に諦めていましたので、実際あまり考えておらず、知名度があって給料が高いところがいいなあ、と(笑)。当時は損保、生保、金融業界とかが人気で、私もチャレンジしましたが、大手の7~8社を落ちてしまい、本当に落ち込みました。それで、もともと福岡に帰るつもりはなかったんですが、内定欲しさから、地元の馴染みのある銀行を受け、福岡相互銀行に就職しました。入行時の配属は、雑餉隈支店でした」
――銀行のお仕事は、いかがでしたか?
「楽しかったですよ。支店勤務6年を経て、その後本部へ。本部には13年いて、その間、東京事務所、資金証券部、人事部研修所、総合企画部と、たくさんの部署を経験しました。でも、基本現場が好きなので、そろそろ営業店に戻りたいと希望を出したら、福間支店の支店長を拝命しました」
――久しぶりの現場になるわけですね。
「実は、本部の役員たちは、私の支店での実務経験が少ないので、支店長をやらせてもダメで、すぐに本部に戻ってくるだろうと思っていたみたいです。でも、意外と頑張ったんですよ、私が。まずは、支店の行員が仕事をしやすいように全面的にサポートしましたし、自分自身、地域の商工会やライオンズクラブなどとの交流にも積極的に参加しました。よく支店の行員に言っていたのが、『支店長を使いこなしなさい』『お客様目線で考えなさい』ということ。支店は意外に、銀行の本部機能を使いこなしていなかったんです。だから、私の本部とのつながりも活用して、顧客サービスの向上に動いたんです」
――皆さん、心強かったでしょうね。
「当時、メイン取引先に老人福祉施設があったのですが、他行との金利競争が激しかったんですね。何か金利以外で役に立つことはないか、じっくり考えたんです。そこで、例えばテレビや雑誌などに、この施設を取り上げてもらって紹介したり、銀行の広報室で施設の紹介ビデオを作成してPRに使ってもらったり。このような付加価値サービスを行う金融機関は少なく、この一生懸命な取組みが、お客様との信頼関係構築に非常に役立ったんですよ」
――平成10年には、広報室長になられていますね。
「その頃は、ペイオフ導入を間近に控えて、金融機関激動の時代でした。山一證券、北海道拓殖銀行、日本債券信用銀行などの倒産が続いていて、お客様の金融機関に対する不信感がピークに達していました。銀行の対外窓口である広報の責任者として、毎日のマスコミの取材対応や記者会見の司会・運営など、緊張感のある結構ストレスのかかる仕事でしたが、充実感もありました。その後、平成14年に北九州病院に出向。総合病院の事務長として、病院の経営と運営に尽力しました。48歳の時でした」
――病院での仕事も、大変そうですね。
「天下りみたいなものですから、最初はなかなか病院のスタッフに受け入れてもらえなくて。でも、今までの人間関係力を生かし、50人ほどの事務職員とは個別面談で相互理解を深めました。さらに、ドクターや看護部長とは、データを示しながら積極的にコミュニケーションを取り、診療の質と診療単価のアップ、医業利益の確保のために議論を重ねました。そんな中、自分の故郷ともいえる銀行は、合併により無くなってしまいました。今の西日本シティ銀行になったわけですが、それをきっかけに、自分で事業をやってみようかと思い、54歳の時に独立しました」
――最初から金融専門のコンサルタントとして、開業されたわけですか。
「最初は、クリニックや病院を対象に経営管理やリスク管理のコンサルの仕事をしようと思ったのですが、なかなか仕事になりませんでした。顧問先が欲しくて、支店長時代の取引企業に挨拶に行ったりもしましたが、結果に繋がらず。今思えば当たり前のことなのですが、やはり、支店長だから相手にしてもらえていただけなんですよね(笑)。 開業後2~3年は、友人知人に紹介してもらった事業計画作成などの仕事をしたり、銀行時代に関係があった第二地方銀行協会の研修や、信用金庫の支店長研修などの仕事を細々としたりしていました。そのうち、やはり銀行出身の私に求められているのは、金融機関との取引に慣れていない零細企業、事業者さんの資金調達のサポートだとわかったので、そこに仕事のターゲットを絞り、現在に至っています。
資金調達や金融取引というのは、コンサルの中でもニッチな分野です。でも総合企画部時代に経営分析や事業計画作成をやったこと、3店舗の支店長として多くの経営者の方と接する機会を持てたことが、今につながっています。事業としては、これからも相談に来られる経営者の方の気持ちを大切にして、寄り添ったコンサルティングができるよう、心がけていきたいですね」
氏名 | 河津 祐二(かわづ ゆうじ) |
会社名・団体名 | 九州経営リスクマネジメント協会 |
所在地 |
〒810-0001 福岡市中央区天神4-8-2 天神ビルプラス5F |
関連ホームページ | http://www.k-mrma.com http://www.k-mrma-Plan.com |
インタビューを終えて
「河津 祐二」考
I.I.(アイツー) 糸川 郁己
「中学校の時は絶好調だったんですよ。中学校以降、その絶好調が来ないんですよ。目指すは、中学校の頃」。そう言いながら笑う河津さん。子どもの頃のいきいきした毎日を、もう一度、仕事を通して実現させたい。そんな思いが、今の河津さんの原動力になっているのかもしれないが、自分自身のことを分析してもらうと、「気を遣う」という言葉が。いじめられたくない、嫌なことを言われたくない、嫌われたくない。泳ぎが苦手だったコンプレックスから、できるだけ友だちと仲良くしようと行動していた子どもの頃の思いが、その根底にはあるのかもしれない。しかし、だからこそ、相手を傷つけまいとする言葉かけや思いやりが、コンサルの仕事に現れるのではないか。河津さんの魅力は、そんなところにあるのではと思う。
私生活では、息子と娘の父親。子どもが小さい頃は、一緒に遊んだことも多いというが、細かいことに対して口うるさい、と言われているらしい。外では、ストレスのかかる仕事を長く経験していることを考えると、そんな一面も理解できる。一方、うるさがられている父親も、お酒の席では、マイクを離さないほどのカラオケ好き。シャイな河津さんが、どんな風に変化するのか、興味津々。一度、ご一緒させていただきたいものだ。