吉田 聡 (よしだ さとし)
あどべじ
――実は、帰国子女だったりする(笑)
「そうなんですよー(笑)。父が仕事の関係で、香港に異動になって、最初は単身赴任で父だけ行ってたんですが、いろいろあって結局家族で香港にいくことになりました。3~5歳まで、香港で暮らしました。周りは日本人ばかりだったので、生活は問題なかったんですが、まだイギリス領の時代でしたからね。ライフル持った兵隊さんがジープに乗って、という姿は今でも覚えていますよ」
――香港というと「食」のイメージがあります。きっと、吉田さんと食との絆の基礎になったんでしょうね。
「記憶にあるのは、船上レストランで麺を打ってるところとか、中華料理で使う大きな包丁とか・・。そして、毎日食べていた果物。マンゴー、ライチ、オレンジとか、南国のフルーツが豊富でしたね」
――帰国したのが、幼稚園の頃。
「当時は、『香港帰りの聡くん』と呼ばれていたらしいです(笑)。本人は覚えていませんが。小学校に入ってすぐは、いたずら好きで、授業中に教室を抜け出したりして、怒られました。祖父母の影響で習字や剣道を習っていました。中学からは水泳部です」
――勉強はいかがでしたか?
「福大大濠高校に進学したんですが、1年次は成績が良かったので、当時の担任の先生から『国立コースに行きなさい』と言われて、2年次から国立文系コース。でも、ついていけなくてですね・・・(笑)
特に数学が全然ダメで、あるテストで200点満点の8点しか取れなかった時は、本当にショックでした。そこで数学はきっぱりとあきらめました」
――大学は長崎大学なんですね。
「受験科目に数学がないところを選んだ、という感じです(笑)。でも、あまり大学に行かずアルバイトばかり。4年間アパレルショップで働いて、ひたすら洋服売っていました。その時は瘦せていて、髪伸ばしてて、よく女性に間違われてました(笑)。結果4年間バイトしたから、常連さんからは『えっ、辞めるの?』と言われて、『大学卒業なので就職するんですよ~』と笑いながらやり取りしました」
――就活はどんな形で?
「僕はスポーツ観戦が好きで、当時は実況アナウンサーに憧れまして。大学のゼミの先生からは笑われましたけど、モノは試しと地方局のスポーツアナウンサー募集にチャレンジ。全国から応募した人が集まっていて、すごいなーと感心。奇跡的に福岡の某局の最終選考くらいまで残ったんですよ。その時に一緒に選考に残っていた方が、今もキャスターとして活躍されています。」
――結局、就職はどちらに?
「広告代理店です。ゼロから何かを作る仕事がしたくて、それで、就職活動は広告関係を中心に活動し、不動産メインの広告代理店に内定をいただきました。ただ営業がハードで。今みたいにメールでデザインが確認できる時代ではなかったので、夜7時とかに、『今から打ち合わせしたいから』と大分のお客さんから連絡があったら、そこから大分へ。打ち合わせ終わったら、福岡にとんぼ返り。そんなことは日常茶飯事で、本当に非効率だったなと。でも、あまりにハード過ぎたのか体調を崩したのと、祖母の体調がよくなかったのも重なり退職。その後、不動産広告を経験していたおかげで長崎の広告代理店へ転職しました。その会社では、イベントの企画運営やTV、新聞社関係など、幅広く仕事ができ、本当に死ぬほど働きました。娘が僕の仕事のことを『お父さんの仕事は、朝早く出ていって、夜遅く帰る仕事』と話してたくらいです(笑)
時効ですが、その時の名刺に『土日休日昼夜も問わず、営業担当者に連絡ください』と書いてあって(笑)。本当に夜中の2時とかに電話がかかって来ました。『どうされましたか?』と対応したら、『いやー、本当に電話出るんだー』とか言われて(笑)。本当にいろんな経験をさせていただきました。今では、いい思い出ですね」
――ということは、しばらくは長崎で?
「30歳になって、福岡の広告会社から声をかけていただき、再び福岡へ。親の年齢も考えたらそろそろ近くにいないとというのもありました。新しい会社は主に分譲マンション広告を手掛ける会社でした。分譲マンションの広告はほとんど初めての経験だったので、とにかく勉強しましたね。35歳になったころ、大阪の営業先企業の社長から呼ばれた。何だろうと思ったら、『35歳だろ? このままでいいと思っているのか?自分の広告を手掛けてみないか』と社長に言われて、二つ返事で、その会社へ転職しました。会社の条件とか何も聞かずに…(笑)」
――いつも、導かれている感じですね。
「その会社では、生鮮食品や産直品などを販売する市場を任され、広告の仕事はもちろんのこと、今までまったく経験のない店舗運営とか仕入れ、バイヤーの仕事も経験。生産者さんのところに行ったり、農協に行ったりと、初めてづくしの毎日でした。その中で、仕事にプラスになるようにと、『食』や『野菜』の資格である『野菜ソムリエ』をとることにしたんです」
――そこから、野菜の世界へ?
「実はその後、市場の仕事から外れて、新しくできる温浴施設を担当するようになったんです。温浴施設のオープンに向けての仕事に全力を注いでいたので、その時は、せっかくの野菜ソムリエの資格を生かす場もない状況でしたね。そんなことを考える余裕もなく、ただただ家と温浴施設を往復する毎日でした(笑)。そんな時、僕の人生を変える言葉に出会ったんです」
――何があったんですか?
「CoCo壱番屋の元社長の講演を聞く機会があって。講演の中の、ほんの一部、「朝4時半に出社する、お客様の声に全部目を通す、9時から1時間かけて掃除をする」、そんな誰でもできそうな、難しくないことを、26年間ずっと続けたということに感動したんです。「誰にでもできることをやり続ける事」。自分でも何かできないかと。その時に僕が、たまたま絵を2日続けて描いていることを思い出して、毎日描いてみようかなと思ったんです。絵をかいたり言葉を書いたりするのは、誰でもできるでしょ。それを、毎日1枚ずつ描き続けていこうと」
――それが今では、もうすぐ2000枚!
「2012年9月20日から、毎日欠かさず描いていますからね。最近よく言われますが、美大でもなければ、絵をきちんと習ったこともないです。2012年の頃の作品を見てもらったらわかると思いますよ(笑)。本当に、ただ続けただけ。続けた事が、上達につながった。才能って、実は作れるんだなと思いましたね。その流れで、野菜ソムリエの仕事をするとき、野菜の絵を描いて、野菜の魅力を伝えるという活動もしていたところ、日本野菜ソムリエ協会から年に一度日本一を決める『野菜ソムリエアワード』へのお誘いをいただきました。地区予選に初めて出場した時は、いやー、プロフィールがすごい人ばかりで。自分なんて、野菜ソムリエらしい仕事してないから、勝てるわけないなと(笑)。ところが、珍しかったのか地区大会で優勝、全国大会でも銀賞をいただきました」
――翌年もチャレンジされたんですよね。
「フロックと思われたくなくて。結果は地区大会優勝、全国大会銀賞。2年連続同じ結果でした。自信にはなりましたが、悔しい気持ちも膨らみましたね。全国大会の表彰式の時に、野菜ソムリエ協会の理事長から『何かが足りない』といわれ、発奮しました。
3年目の日本一へのチャレンジの日、その日は熊本の震災のあった当日でした。正直気持ちが落ち着かない状態でしたね。プレゼンで何を話したのかも正直覚えていませんし。ただ、周りの方に思いが伝わったんでしょうね。念願の日本一になることができました。男性では、僕が初めての日本一の野菜ソムリエなんですよ。実は意外とすごかったりします(笑)
日本一になったことで『絵を描く野菜ソムリエ』としての幅もどんどん広がっていっています。
2015年には、独立して主に飲食店向けの販促を行う広告代理店あどべじを開業し、今までの経験や人とのつながりを活かして、販促や広告のご提案もさせていただいています。最近では、食や販促など様々な題材で講演の話をいただく機会も増えてきました。絵を描くことを軸に、野菜ソムリエの枠にこだわらない仕事ができているのは、本当にうれしい。これからも、『誰にもできない、自分らしいこと』を継続し、法人化も目指したいですね」
氏名 | 吉田 聡(よしだ さとし) |
会社名・団体名 | あどべじ |
所在地 |
〒815-0035 福岡市南区向野2-15-5-403 |
関連ホームページ | www.advege.com |
インタビューを終えて
「吉田 聡」考
アスウェル合同会社 山田 武知
吉田さんは、何度か体の不調を体感している。それは、ハードな仕事によるストレスだったのか、原因はわからないが、そこから健康と食を意識することになったことは、間違いないと思う。「今、死んだら何が残るんだろう。死んで残るものってなんだろう」。そう考えた時、自分の気持ちに正直に、自分しかできないことをしたいという思いに気づいた。そこに、「野菜ソムリエ」と「絵手紙」との出会いがあり、二つのコラボが生まれたのではないだろうか。
自分分析をしていただくと、「人当たりがいい」と評価。吉田さんに尖がったところが見当たらないのも、うなずける。しかし、「人当たりの良さ」は自分に跳ね返る。自分に負担がかかることも多くある中、吉田さんはそれをしなやかに乗り越えている。その答えは、本人のこの言葉からうかがえる。「ニュートラルである」こと。ドライブでも、バックでもない、どちらにも対応できる、中立的状態。これが吉田さんの、どんな変化が訪れても、慌てずに対応できる柔軟性につながっているように思う。
家のことは、奥さまに任せっぱなしとか。でも、奥さまの応援なくしては、ここまで来れなかっただろう。かわいらしいイラストと的確な言葉で、毎日産み出される吉田ワールド。その絵手紙を楽しみにしているファンも多い。どこまで行けるか、どんな世界が広がるのか、これからの作品が楽しみだ。