正木 研次 (まさき けんじ)
株式会社マルショウ
――博多生まれの博多育ち。生粋の博多っ子ですね。家業を継ぐということは、いつ頃から意識を?
「子どもの頃は、あまり考えてなかったんですが、店の手伝いはよくしてましたね。売れる楽しさも体感していたし、私や商品を気に入って来てくださるお客様もいらっしゃいましたし。男4人兄弟の長男で、自分が継がなきゃなーとは、徐々に考えるようにはなりましたが、父は頑固だし、継ぐことになってももめるかなー(笑)」。
――東京の大学に進学され、しばらくは東京で武者修行。
「はい、大学を卒業後は、東京のアパレル洋服関係の会社で、小売りについて学びました。レディス部門に配属され、2年後はメンズ部門へ異動。それから、将来的に福岡に戻ることも考え、働きながらアパレルの専門学校に、週2日通いました。製造とかマーチャンダイジングなどを1年勉強。その後、メーカーに就職して、営業やファッションショーの企画なども経験しました」
――幅広く学ばれたんですね。
「東京から南エリアの営業が私の担当だったので、月2回くらいの展示会とか、ワゴンキャラバンとかで鹿児島までも行きました。そういう様々な経験のおかげで、百貨店とのお付き合いもできるようになり、今でも非常に役立っています。特にメーカーでは、ある商品を売るというよりも、お客さまに着ていただきたいものを作るという考え方があったので、発想力も豊かになり、感性も磨かれたのではないかと思いますね」
――その後、福岡へ?
「はい、27歳の時でしたが、母の体調がよくなかったこともあり、福岡に戻り家業の経営に携わることになりました。当時は店が4店舗あり、従業員も20人おりました。私は平社員から入社、経験を積んでいる先輩たちの仲間に入って、うちの会社のいいところ、守っていきたいもの、そして変えたいところはどこなのか、見極められるよう情報収集も行いました。もちろん、東京での自分自身の経験も活かしたいと思っていましたしね」
――家業に入ってみて、いかがでしたか?
「いろいろ、気づきはありました。例えば、組織全体が時間にルーズなところとか、何か指摘しても、反発したり、反感持つ社員がいたりとか。でも、今は、自分が色を変えるようなことはまだすべきではないかなと。トップでもありませんでしたから、役職をいただけるようになったら、少しずつ変えていけるところは変えていきたいと考えていました。
30歳過ぎてから役職をいただいたので、事業を拡大することを提案しました。今まではメンズだけだったんですが、レディスもやっていこうと。数年後には、店も9店舗になり、改装するなどお金もかけてきました。そこで、事業拡大の夢を抱き、キャナルシティで海外ブランドセレクトショップを始めることにしたんです。実際に海外に行き、レザー商品やジャケット、パンツなどを仕入れて、販売しましたが、うまくいかなかった。それは韓国で作っていたことに原因があるようで、売れてはいたんですが、デザインに変化がない。そのため、ヨーロッパを2週間かけて回り、2~3回商品を仕入れてみたんです。
そのうち、売れる商品やデザインなど、商品の見極めができるようになり、ロットでの生産ができそうだと判断。アルマーニのジャケットを作る工場で、ブランドネームを変えて生産することができるようになったんです」
――それは、すごいですね。
「自分でもの作りしたかったからですね。そこから、国内のデザインに納得しなかったので、デザインのメッカであるイタリアに年2回出かけて、2~3週間かけて工場周りをしました。レディスについても、年2回ヨーロッパを回って、商社との取引も始めることができました。さらにカジュアルなものについては、ロサンゼルスやラスベガスへ、こちらも年2回くらい行き、自分の足で情報を集め、安くていいものを探しました。こういう生活を15年ほど続けていまして、時には、ヨーロッパに3週間行き、成田に戻って2~3時間たってから、今度はアメリカに行く、みたいなこともありましたよ」
――その後、38歳の頃に専務取締役に就任されました。
「弟たち3人も家業に入りましたし、やっと基礎固めができて、店舗は12店舗に。1都市に1店舗を目指し、九州で一番大きなアパレルにしようと頑張ってきました。ここから、さらに店舗展開を拡大しようと考え、客数を稼げるリーズナブルなファストファッションの勉強にアメリカへ。まだ日本に来ていないものを探したり、アメリカの物流システムやユダヤ商法など、さまざまなことを学んだりしました。
さらに卸の会社を立ち上げ、イタリアブランドの代理店としての事業も展開。小売店や百貨店に卸したり、関西や中国・四国などで展示会を開催したりもしました。イタリアの商品を扱ったことのない店舗に、販売方法のノウハウを伝えたり、ディスプレイの講習をしたり。商品を提供する以外のお付き合いも通して、売り上げアップに貢献する事業も行いました」
――福岡にも、日本にもいらっしゃらない日が多くて、お忙しい毎日だったんですね。
「ただ、ネット販売の拡大という時代の流れもあり、またパパママ店で事業継承が難しい店も多くなったため、卸の事業からは撤退しました。今後、どんな事業展開が可能か、どんなチャレンジができるか、もっと考えていきたいと思っています」
――正木さんは、お母さまが残してくれた「4本の矢」の話を、とても大切にされているそうですね。
「実は、ずっと心の支えになっている母の言葉なんです。『毛利元就の三本の矢の様に、一本ではすぐに折れてしまう矢も四本あれば絶対に折れる事は無い』。口癖の様に、母はいつも話してくれましたが、会社をここまでできたのも兄弟四人の力は本当に大きい。意見で衝突する事も多々ありましたけど、目標はひとつ!四本の矢は目標に向かって、今でもまっすぐ向かっているんです」
――上川端商店街の活性化に尽力されています。
「商店街の皆さんの経営がうまく行くように、ネットを使っての販促などを提案しています。『すまっぼん』もそのひとつですが、年齢の高い方のご利用はなかなか難しいので、新しい販促企画も考えようかと思っています」
――もうひとつは、「博多祗園山笠振興会」の活動ですね。
「山笠の運営をやっている団体で、私は広報や商品企画、チラシなどを使ったPRを行っていまして、福岡市観光課とも連携しています。商店街の経営は、山笠とセットだと思うんです。山笠の上下関係は、子どもたちの教育にも一役買っていますし、祭りや文化の継承が町の活性化にもつながりますから。
外国から観光客が福岡に来られた時、夜に観光客が楽しめるところがないというご意見をいただき、「川端夜祭り」を企画しました。初日は、アーケードの真ん中にテーブルを並べて、飲んだり、時間をつぶしたりできる、福岡版『台湾の夜市』の展開。二日目は『ガチャガチャ』を使って、博多人形を気軽に見ていただいたり、博多織の販売やマルシェ、昭和初期の骨とう品などを見ていただく企画で、トータル1万7000人の方にご来場いただきました」
――大盛況・大成功でしたね。
「この活動を通して、とにかく顔が広がりました。パイプもできて、非常にプラスが大きい。なにせ、年間5000人の人とお会いしているわけですから。仕事のやり方や幅感、心の温度など、『熱意』の大切さを体感しているように思います。
当然、壁にもぶち当たります。でも、やめたり、楽したりするのではなく、乗り越えることで伸びること、ジャンプ力がつくことが大切。順調にいっていると、天狗になるでしょ。そういった時ほど、乗り越えたはずの壁をもう一度見つめなおしたりして、『振り返る』ことも忘れないでいたいと思っていますね」
――今後は、どんな目標を?
「本社的には、物流などを変えていく時期なのかなと思っています。また、乗りやすかったり、信じやすかったりする自分をいさめ、慎重に冷静に行動したい。特にこの1-2年は、仕事観を見つめ直して、仕事の範囲ややり方などの形を組み立てたいと考えています。性格的には素直なので(笑)、いろんな人と関わりながら、いいところを自分に取り込んで、足りないところは人に委ねる。そういう柔らかい動きができたらな、とも思っています」
氏名 | 正木 研次(まさき けんじ) |
会社名・団体名 | 株式会社マルショウ |
所在地 |
〒812-0026 福岡市博多区上川端町5-120 |
関連ホームページ | http://montelupo.jp/ |
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インタビューを終えて
「正木 研次」考
N.GROWTH株式会社 桑原 ナミ
とても社交的な方だ。というよりも、社交的に育ったというべきか。
子どもの頃はおとなしかったそうで、何事も黙々とやり続ける性格。しかし、家業の手伝いをするようになり、店に出る、接客をする、という毎日。否応なしに、お客さまとコミュニケーションを取ることになり、それが会話力の向上につながった。会話が楽しい。さらに、売れたらもっとうれしい。その楽しさを体感する日々が、正木さんに「社交性」を植え付けていったのかもしれない。
「ご家庭では、どんなご主人?どんなお父さま?」と聞くと、仕事ばかりしているので、家のことは全然と笑うが、それも当然のことだろう。家業に商店街に山笠。それ以外にも、若い頃はJCの活動もされていたそうで、「JCに力を入れすぎて、仕事できてなかった」と反省の弁も。そんな忙しさの中にあっても、3人の娘さんは立派に成長されている。奥さまの「自分が育てた」の言葉も、納得だ。
正木さんの今までの中で、心の中に大きくあったのは母親の存在。20年前に他界されたが、その時は「心の支え」を無くしたと思ったという。自分の仕事ぶりを、信用して見つめていてくれたとも振り返る。家業の中で、トップである父親とぶつかることもあったに違いないが、その時も黙って背中を押してくれた母の姿は、何よりも心強かったのではないだろうか。
後継者としてだけでなく、福岡・博多の伝統を守りつつ、新しい風を起こし、発信していくために、多方面で活躍する正木さん。私たちをワクワクさせてくれる、その魅力とバイタリティに、今後も注目していきたい。