中村 伸一 (なかむら しんいち)
やまぐち総合研究所有限会社 取締役
――山口に生まれ育って、今も拠点は山口。地元を大切にされていますが、山口ではどんな幼少期を?
「私はよく、『4学期目の学級委員長』と呼ばれてましたよ」
――3学期までしかないのに?
「先生から、『4学期があったら、次の学級委員はお前なんだけどなー』とよく言われていて…(笑)。私自身も『自分が!』というタイプではなく、どちらかというとリーダーを補佐するオブザーバー的な役割が好きなんです。山口県的にいうと『軍師』ですかね」
――大学は、九州産業大学に進学されたそうですね。卒業後は、山口で就職を?
「SEなど花形の仕事について、山口に戻ろうと思っていました。でも、就職活動でことごとく失敗して。受けるところ全部落ちました。落ち込みましたね。適性診断したらSEに合わないと結果が出る、営業は受かるけど、という状態で。でも、ギリギリまで頑張って、4年生の2月28日に、パナソニックの販売会社から内定をもらいました。結局、PCの営業としての社会人スタートとなりましたけど」
――営業のお仕事は、いかがでしたか?
「PCはNECが圧倒的シェアを持つ時代でしたが、バブルの頃だったので、環境がよくなってきた時期。でも、私は営業が嫌いで、『お願いします!』と頭を下げるイメージがあるのが嫌で、渋々やっているから実績は上がらないですよ。ただ営業先が販売店さんだったこと。特に、販売店の社長にいろいろ教えていただけたことがプラスになりまして。社長たちを見ることで学べますし、質問もさせてもらえる。マーケティングや営業、販売のことが分かってきたのも、この時期。おかげで、営業に対する考え方も変わり、一対一、一対多数など、さまざまなケースでの商品説明会で話をすることもできるようになりました。その結果、入社2年目で全国販売コンテストの1位になることができました」。
――苦手だった営業を克服されたんですね。
「ただ4年目に配置転換になり、今度はOA機器の担当に。ちょうどその頃、会社を辞めてコンサルの仕事をしたいと思うようになっていたんですが、まだコンサルの仕事自体が確立されていなくて、断念。配置転換になったので、心機一転、頑張ろうと。配属が下関だったので、北九州も営業先に含まれますから、そこから九州にも仕事で出かけるようになりました。
私が兼務したのは、ガソリンスタンド向けのPOSシステム。ちょうど顧客先のシステムが入れ替えの時期だったため、どんどん受注が決まって、業績はアップ。その後、山口支店に異動、POS専任になり、毎日、寝る暇もないほど働きました。というのも、機械の入れ替えが夜中の作業になるので、かなりの時間外労働で(笑)。20店舗の入れ替えを2年かけてやりました。忙しかったですが、楽しかったですね。顧客からは、私が訪問すると『松下が来た!』と言われ、音響などのさまざまなものも提案したら売れて。ここで初めて『これが提案営業なんだ。話をすることが大切なんだな』ということを実感できました」
――この時に、今につながる転機があったんですよね。
「得意先の部長の勧めで、商工会議所主催の異業種交流会に参加。地元の名だたる社長ばかりが参加されていて、何を話したらいいのかもわからず、ただ聞くばかりでしたが、毎月参加していると、少しずつ社長たちともつながりができた。そうなると、勘違いしてくるんですよね、自分でも何かできるんじゃないかって」
――そこで、コンサルとして独立された。
「退職してコンサルティングの仕事を始めようと知り合いになった社長さんたちに挨拶に行ったりしましたけど、呆れられました、『山口の中小企業じゃ、コンサルなんか使わないぞ!』って。仕事にもならず、そこで初めて自分の勘違いに気づいた。30歳すぎて、人生浪人。その時、心配してくれたある社長から税理士を勧められて、図書館通い。朝5時~23時までずーっと勉強して、資格取得を目指しましたが、これもなかなか…。親からは『いつ働くんだ』と言われ、結局、保険会社に就職。でも、保険は個人営業の仕事でしょ。今まで法人営業だったから、どう営業したらいいのか、また壁にぶち当たってしまって、毎日悩んでました。
そんな頃、友人がインターネットのビジネスを始めていて、勉強会に参加してみた。専門用語が飛び交っていて、全然わからなかったんですが、世の中の動きはきっとこうなんだろうなーと思って、興味を持ちましたね」
――このあたりから、大学とご縁ができた。
「山口大学と山口県がベンチャー育成授業をやっていたので、『会社作ろう』と誘ってきた友人と一緒に参加したら、取材対象になって、『ベンチャー企業を目指す人』というテーマで特集されました。それで33歳の時、友人たちとの共同経営の形で創業。でも、事業計画は作成したものの、夢物語の状態でスタートしたので、当初予定していた仕事はなかなか入らず、とりあえずは挨拶回り。その時に、以前勤めていた会社から、山口大学でのプラズマディスプレイを使った、校内の案内掲示板の相談を受け、WEBの技術で提案したら採用していただいた。でも1年間で、開発案件での大きな仕事はこれだけ(笑)。資本金は減るし、社員には給料を払わないといけないし、たった1年で倒産危機。私は、会社をたたもうかと思っていたんですが、役員会議では、技術者のみんなも『営業しよう』ということになって、ぎりぎりになって、みんな急に尻に火がついたんですよね」
――このあと、ユニクロとのお付き合いが始まるんですね。
「山口に本社があったユニクロに、営業をかけるようになったんですね。そこで相談されたのは、倉庫管理のシステムの仕事。当時は、あまり効率的じゃなかったんですね。そこで私たちはデータベースを使い、倉庫管理の効率化に取り組んだ。それを高く評価していただいて、ユニクロのITコンサルの仕事をするようになったんです。またユニクロは、毎週金曜日にチラシを打っていたんですが、チラシに合わせる店舗の陳列指示を効率化する仕組みを提案もして、受注してシステムを納品しました。今でいうグループウェアを作って、情報を共有できるようにしたんです。これを高く評価していただいて、ユニクロでのネットワークのインフラ構築のコンサルティングも始まり、継続した仕事につながっていきました。会社は2年目に黒字化。3年目にやっと累計で黒字化できました。ユニクロと仕事をしていた頃は、社内でもいろんんなことがあって、なぜか私が社長になっていましたね」。
――大きな転機になりましたね。
「考えてみたら、私たちメンバーは、NEC系ソフトウェアのエンジニアとか薬品メーカーのMR、トヨタのディーラー勤務だったりと、前職がさまざま。だから、様々な角度からの意見やアイデアが出て、それを組み立てて提案するという動きが取れたんです。個々の能力を出し合っていたわけです」。
――これが、今のコラボの仕事につながっている。
「まさに。コラボはイノベーションで、個の価値の組み合わせで事業も生まれていくのです。その後、36歳で結婚。テレビ局やFMラジオ局との共同事業も立ち上げるなど、順調にいくはずだったんです」
――はず?
「ユニクロは当時、拡大路線の中でネットインフラも強化していたんですが、会社のコアな部分を外部に任せているのはいかがなものかと問題になったんですよ。それでユニクロから、『会社ごとユニクロに来い!』と言われて。それから社内は大変ですよ。個の集まりだから、それぞれの考えは違う。私はユニクロに行ってもいいかなと思っていたけど(笑)、結局まとまらず、共同経営なので皆の意見を尊重してユニクロにお断りをした。ただ、ユニクロの仕事をメインにしていた役員は、ユニクロに転籍しました。ここで顧客、人材と大きな柱を二本も失い、ユニクロからの売り上げはゼロになるし、ITバブルも弾けて、収益は悪化。2年後にとうとう赤字に転落。ストレスで倒れたりもして、なかなか…。やりたいことを見つめ直したりもしましたね。
共同経営の限界と、開発案件のスピーディな判断が必須になることを実感して、社長を辞任、平社員となりました。半年経つと、仕事に物足りなさを感じて退社。2005年に、やまぐち総合研究所を設立しました。当時は創業、ベンチャーブームが再来した頃で、自分で創業支援の仕事を入札で取ってきたことがきっかけとなり、創業支援の仕事が本格的にスタートすることになったんです」。
――独立は41歳の時。
「起業家として第二の人生を歩み始めたのは、厄年でした(笑)。その後、山口大学で講師をしたり、地元テレビ局でコメンテーターをしたり。でも創業ブームも終わり、国も支援をやめて、民主党政権になったら創業支援の仕事がなくなった。いよいよ仕事もどん底になり、やり方を変えよう。民間に寄り添う仕事をしようと考えるようになった。活動範囲も広げて、福岡や広島に出かけていくようになりました」
――そこから、ビジネス交配会が始まるんですね。
「福岡には大学の教え子やコンサルの友人も多くいて、応援してくれました。何より福岡は、山口よりも比べ物にならないくらい開放的だと思いました。このタイミングで、㈱イーハイブの平井良明さんと『知的資産経営』を軸に、事業者同士のコラボを創発するオリジナルワークショップ、『ビジネス交配会』を展開。そして、これをアレンジして社員教育に活用したり、自治体向けや創業者向けにも提案していきました。このノウハウをワクワクコラボレーションとて登録商標にしました。今では、『ワクワクコラボレーション』のプログラムは8パターンくらいありますよ」
――ご自身の今までを振り返って、いかがですか?
「自分の仕事人生は、『守・破・離』の3文字で表せるかなと。守=サラリーマン時代、破=ベンチャー企業時代、離=コンサル時代。今は、仕事とプライベートのバランスを大切にしています。とはいえ、地域密着の仕事でしょ。プライベートでも、仕事が抜けないんです。それで、例えば家族と出かけるときも、仕事にプラスになる動きを意識してます。例えば、家族とウインドウショッピングする時は、仕事の情報収集を兼ねて動く。最近は、山口のサッカーチーム『レノファ山口』の法人サポーターになり、応援に出かけると同時に、リサーチ活動も行っています。仕事面では、几帳面にしなきゃと思うとストレスになるから、余裕を持ってアイデアが出やすいように心がける。そのバランスが、とても大切だなと。これからも柔軟性を持って、人を見つめていく仕事を通して、コラボレーションを広げていきたいと思っています」。
氏名 | 中村 伸一(なかむら しんいち) |
会社名・団体名 | やまぐち総合研究所有限会社 |
所在地 |
〒753-0077 山口県山口市熊野町1-10 NPYビル2F |
関連ホームページ | http://www.yamasoken.com/ |
インタビューを終えて
「中村 伸一」考
障害者アスリート 永野 明
「自分はコンプレックスの塊なんです」と中村さんは言う。それは、大学新卒での就職活動でうまくいかなかったり、目指そうとしていたSEやプログラマーに適正がないと診断されたりしたことから派生しているのかもしれない。しかし、嫌いだったはずの営業職に就いたことで、自分でも気づかなかった「提案力」や「コミュニケーション能力」を発揮し、誰よりも実績を上げてきた。「自分を知る」ことは、それだけ難しい。だからこそ、中村さんオリジナルの『ビジネス交配会』は生まれているのかもしれない。
中村さんの「ビジネス交配会」での「知的資産」の掘り起こしは、自分に気づくきっかけになる。その気づきを誰かに伝えると、化学反応が起き、次のビジネスにつながる。「気づいて、伝える」という、ただれだけのアクションが、大きな変化を生み出す。こんな魅力的な会はないのではないだろうか。
たくさんのコラボレーションを全国各地で生み出している中村さん。それを一番楽しんでいるのは、中村さん自身なのだろう。参加者同士のコラボは、中村さんと参加者たちとのコラボでもあり、中村さんと各地域、各ビジネスとのコラボともいえる。
そんな、仕事では能動的な中村さんも、家では依存型だとか。小中学生である二人の娘さんと、休日にはできるだけ出かけようとされているが、頭の中に仕事モードを隠し持っているところも、まっすぐな中村さんらしい。飛び切りの笑顔と行動力で、周囲をワクワクさせるところも、オレンジ色のユニフォームを着て、サッカーの応援をしている姿も、今の中村さんの代名詞。たくさんのつながりが、大きな輪になり、地域の元気やビジネスの成功に結びつくことを、これからも期待したい。